第43話 簗田政綱と水野信元

 向かい合う二人の間には絵図が広がっている。絵図には鳴海大高周辺が描かれており、付城を示す黒枠の丸印が五つある。そして大高城の南には朱筆で三つの丸。それぞれに氷上ひかみ向山むかいやま正光寺しょうこうじの文字があった。

「貴殿もご存じのように、当家は今川方の鳴海・大高両城を押さえるため、これまで五つの付城を普請しました」

 上座に座る簗田やなだ政綱が口上を述べる。

「そして本日、貴殿をお訪ねしたのは他でもない。大高の囲みをさらに盤石なものにするため、貴殿のお力をお借りしたいと、主君織田上総かずさは申しております」

「……」

 下座の水野信元は言葉もなく、ただ絵図をじっと見つめている。彼が見ているのは大高城とその周囲を囲む付城の丸印だった。

「貴殿には、向山をお願いしたいとのことです」

「……」

「ちなみに氷上には千秋せんしゅう四郎(季忠すえただ)殿、正光寺には佐々さっさ 隼人正はやとのしょう政次まさつぐ)殿が入る予定です」

「……」

「特にこの氷上は昔から熱田神宮の神域だった場所。貴殿もご存じのとおり千秋殿は熱田の大宮司の家柄にて、これ以上ない人選ということですな」

 ここまで喋ると、政綱は口を止めた。じっと図面を見続けている水野信元は何を思うか、動きがない。

 尾張と三河の国境間際にある小河おがわ城(現愛知県知多郡東浦町緒川)の、いつも会見に使う広間に二人はいる。

 簗田政綱が人払いを願ったため、他には誰もいない。政綱はそれでも信元にしか聞こえないほどの小声で話している。広間の裏で近習が潜んでいる場合に備えているのだろう。

「近う、ござるな」

 暫くたって、呟くように信元が言った。向山の付城の事を言っていることが正綱にはすぐに分かった。向山は大高城の南に引っ付けたように丸が打たれている。

「……」

 政綱は無表情な顔で信元を見ている。

「これは、どう考えればよろしいので」

 暫くして、水野信元は再び口を開いた。声には緊張感がある。

 ――犠牲になれ、と言われているように感じているのだろう。

 政綱はそう思った。

 政綱は斯波しば義統よしむねに仕えていた時に水野氏への奏者を務めていたことがあり、水野信元とは馴染みが深い。

 そのため信元が何を考えているか大まかなところが推測できるのだが、それにしてもこれは分かりやすい。

 信長が付城を作っていることを信元が知っているのは当然で、寧ろ自ら様々な情報を探り、集めてさえいるはずだ。その上で信元は、付城はあくまで今川勢の動きを封じるためで、戦を煽るものではないと見立てたに違いない。

 ところが絵図面の付城は、あまりに挑発的な位置にある。大高城の今川勢は「見くびられた」と逸るだろう。

――そしてそれが我が水野だと……。

 例えばこれまで織田と交流がなかったということならば仕方ないと思う。新参者が最初に最前線を宛がわれるのはこの時代の慣例だからだ。しかし、織田と水野の付き合いは長い。それなのに今、何故こんな敵前に我が家を差し向けるのか。

 大方信元の頭の中はそんなところだろうと政綱は見ていた。

(まず水野は気分を害するであろう。即答を避けるに違いない)

 この指示を受けているとき、信長は真顔でそう言った。

(松平の子倅が正式に今川の寄子となり、奴が三河を統治することが明らかになった今、今川が三河全域の完全支配を目論むことは明白よ)

(松平と敵対している水野に動揺が広がるのは必定。家中はもちろん、下野しもつけ〈信元〉自身も小心者で猜疑心が強いゆえな)

――そこでだ。

 その後に信長が指示したことを実行しよう、と政綱は口を開く。

「この春頃から、噂があったのをご存知か」

 と簗田政綱はさらに聞こえるか聞こえないかの小声で言った。

 うん?と信元は顔を上げた。不思議そうな表情になっている。

「鳴海の山口父子の死は、我があるじ織田上総が仕組んだという噂でござる」

「……確かに、耳には」

「実は、あれはまことでござる」

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