第39話 付城づくり

 清須城に戻った信長は、すぐに重臣たちを呼びつけた。評定の間に集まった重臣たちは正面に座る信長と、信長の前に広がる絵図面を見た。

「鳴海・大高に付城を造る」

 信長は言った。この言葉で重臣たちは、当面の敵が美濃の斎藤ではなく今川家であることを知った。

「五か所、ですか」

 図面を見ながら柴田勝家が聞いた。

 鳴海城の周囲に二か所、朱筆でぐるりと丸が書かれている。付城を示すこの印の横には丹下、善照寺の文字がある。

 同じく大高城には鷲津、丸根。そしてその間を繋ぐ中島にも付城の印が見られた。

「しかし、これでは」

 林秀貞が渋い顔で声を出す。すかさず信長が「何か」と聞くと、

「既にお分かりとは存じますが、これでは海からの補給に対応できませぬ」

 確かに絵図面にある付城の配置を見ると、疑問に思う気持ちも分かる。

 鳴海城、大高城はそれぞれ西側を海に向けている。陸地にいくら付城を作っても、船による物資の補給や人員の増援などを防ぐことは難しい。

 特に今川家の本拠地である駿河は、水深の深い駿河湾を南に持ち、古くから海運が発達している。物資や人の大量輸送はお手の物だろう。

「なに、収穫までに間に合えば、両城の年貢を奪い取ることが出来るだろう」

 信長は真顔だった。しかし答えをはぐらかしていることは重臣全員が分かった。信長はこんなとき決して本心を明かさない。

「それぞれ誰を宛がうかは決めておられますか」

 織田家の政務の中心人物である村井貞勝が聞いた。

「ああ。丹下は水野帯刀たてわき、善照寺は佐久間右衛門に任せる。中島は梶川平左衛門、丸根は佐久間大学、鷲津は玄蕃允げんばのじょう殿にお願いしようと思う」

 信長が殿と敬称を付けた玄蕃允は織田秀敏のことを指している。信長の祖父信定の弟にあたる。信長が家督を継いだ時からずっと味方でいてくれた数少ない親族だった。

 この人物には一つ話がある。

 天文二十二年(一五五三)と推測されるから、信秀が亡くなって一年後、丁度信長と斉藤道三が会見をした年となる。道三が秀敏に送った手紙が残っている。

『ご家中の不和はそのまま放置することなく、調停をされるのが良い。いかような事でも使者をもってご見解を承ります。三郎殿様(信長)は未だ若年のため、普段のご苦労を察して余りあるものがあります』

 と、丁重に書かれている。

 どうやら信長の後見人として会見のお礼状を書く際に、秀敏は織田家中の分裂に対しての愚痴を書いてしまったものらしい。この人物の人の好さが見て取れる。道三は苦笑しながら書いたのだろう。


 信長が評定の間を退出してからも、重臣たちは皆残り、付城建造に関わる細かい打ち合わせをした。

 大まかな指示は既に信長から聞いていたので、話は五人の将を中心とした人員の振り分けや作業の大まかなスケジュール作りなど、事務的なことに終始した。

 大体の筋が決まると、林秀貞、村井貞勝が信長に面会し、重臣会議の結果を報告した。

「良い。任せる」

 信長は一言で承諾した。

 それから数日もせぬ間に、鳴海を囲む丹下・善照寺の付城づくりが始まった。

 丹下は周辺の集落の中にある古屋敷を、善照寺は古寺を利用して、周囲を囲む柵や堀の普請から始まった。

 季節は梅雨。しかし雨が少なかったため、付城づくりは予定以上に早く進んだ。

 鳴海城の今川勢は動けない。初期に投入された織田方の兵の多さもあるが、付城づくりが予想以上に早く、対応策を図る隙がなかった。

 いつしか付城づくりは大高周辺にまで広がっている。

 信長は米の収穫前に全ての付城を形にするよう言明していた。今川が周囲の田畑から年貢を取れなくすることが理由の一つだったが、労役の主力が織田領の農民を刈り出してのものだったため、稲刈りが始まるまでには作業を終えたいということもあった。

 梅雨が明け、セミの鳴き声がうるさいほどの時期になると、五つの付城は堀や土塁がしっかりと築かれ、中の建物も作事が進んでいた。中には多くの兵が常駐し、鳴海・大高の両城を睨んでいた。

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