第37話 大高、そして桶狭間へ

「来い」

 信長は藤吉郎に向けてそう言うと、馬を出した。前後に控えていた近臣たちも次々に馬に乗り信長の後に続く。

 信長は黒末川沿いに南下し、大高城の方へ向かう。川沿いといっても進行方向である南には海が広がり、信長らは砂浜といっていい砂地に丸く小さな石がちりばめられた地面を進んでいる。

 大高城は黒末川の河口にある。河口から広がる海は伊勢湾。海の向こうには長島、桑名から伊勢へと続く山々の連なりが見えている。

 しかし信長が目を向けているのは寧ろ大高城を囲む山々の方だった。特に大高城から見ると東北の方向となる丘陵の方を気にしている。

 この丘陵、先ほど信長が中島で見ていた小高い山々から続く最後の起伏といえる。ふくらみの先には寺があった。長祐寺という真言宗の寺だ。

「藤吉郎、あの寺のあたりを何という」

 駆け足の藤吉郎は、それでも信長の馬のすぐ後ろに付いてきている。信長の言葉にちらりと寺の方向を見て、

「鷲津という地でございます」

 息も乱れずに答えた。

 信長はうなずく。実はこの周辺、信長は事前に調べて知っていた。

「ではあの地は」

「丸根でございます」

 信長は鷲津から山二つ分先を指さしている。

 この二ヵ所の地、鷲津、丸根と大高城の間には大高道と呼ばれる道が通っている。信長達が中島から来た道も同じ大高道だ。

 信長は馬上、鷲津、丸根の山々、そして大高城とその向こうにある山々を一望すると、クルリと馬を返した。後ろにいる近臣たちが馬をよける中悠々と元来た道を戻る。

 中島まで戻るとそのまま東、手越川に沿って山の中に入っていった。

 そこは北と南を山に囲まれ、丁度谷間となっている場所で、幅は広くはないが傾斜が緩く、馬でも苦労せずに通ることができる道がある。東海道と呼ばれている。

 しかし当時の東海道は江戸時代以降の道とは違い、整備されていない細道が続いていた。この当時京と東海を結ぶのは東海道の北、沓掛城のある沓掛の地と鳴海を結ぶ鎌倉往還が主なルートだった。

 手越川はすぐに細くなり、小川となって北側の山沿いに流れを作る。山の中に入るとすぐ、所々に松の生えた広い空間があった。

 この後、江戸時代初期から有松という名で発展するこの地は、当時人家など一軒もなく、赤松の木と雑草だけがあった。中島からここまでなら、軍勢を進めることが出来るだろう。

 この地を囲む山々は松や杉などの針葉樹が群生しており、意外と高い木が少ない。東の方向にクスノキの大木があるくらいだ。

 理由がある。

 この周辺は昔から陶窯とうようが点在していた。古墳時代には猿投窯さなげようと呼ばれる古窯こようがあり、鎌倉時代まで続いたという。戦国時代と呼ばれるこの時期、猿投窯は衰退していたが、瀬戸や常滑に技術が伝搬していた。

 昔はその地域に窯があると、周囲の山は禿山になるといわれた。大量の薪を切り出すためだ。

 鳴海周辺の丘陵地もその例外ではなく、特に窯を焼くのに良いとされる赤松などが次々と切られていった。

 永禄二年のこの当時、猿投窯のために切りつくされた山々も、かなり緑を取り戻しはしていた。しかし、赤松が群生しているこの周辺は、時折陶工たちが薪を切り出している。そのため、この辺りの山々には年を経た大木や古木が少ない。

 信長は後の有松という地を南に折れ、山と山に囲まれ窪んだようになっている麓の中に入っていくと、馬が登れそうな角度を選び、東側の山を登り始めた。山といっても高さは五十五mといったところで、頂上に着くのにさして時間はかからない。

 周辺の山々、そして鳴海城から東に連なる丘陵地は『鳴海山二十八峰』と呼ばれた。東を向く信長の眼にはさほど高くない山々がうねるように続いている。東に見える一番高い山でも六十五mほどの高さしかない。

 振り返ると木々の間から中島が見えた。黒末川と手越川で三角州になっている様がよく分かる。その向こう、黒末川に合流している天白川の岸辺にある鳴海城も見えている。ここから見ると鳴海城も東から続く丘陵地の外れにあることが分かる。

(やはり、この辺りだろうか)

 と、信長は考えている。

 もしも今川勢が大軍で来た場合、呼び込むのはこのような地ではないかと思っている。

 この辺りなら、例えば鳴海城を囲む織田軍の動きを見るのに適し、織田の攻撃に対抗できる場所だと思うのではないか。一方、起伏や木々がじゃまとなり、どうしても軍は分散される。大軍としての陣容を活かすことが出来ないだろう。

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