第36話 付城の構想
今川の領地ではあるが、鳴海・大高の両城を付城で囲むことによって、今川の攻撃目標はこの地になる。
今のままなら、今川は尾張の商業集積地であり港もある熱田を狙うだろう。現に今川との最前線は熱田に近い。
しかし、この地に付城があれば、今川は鳴海・大高の救援と付城攻略が第一目標となる。
そしてここには駿府から道が続く鎌倉往還、そして東海道が通っている。今川としては大軍を移動させやすい地だといえる。
(だが、付城があることで今川はこの地に留まることになる)
そこを自らの軍勢で突く。
だが、この考えは、今の段階では下策中の下策といっていいだろう。
今川襲来に対抗して清須から兵を差し向ければ、東から進軍してくる今川の軍勢と、西に位置する鳴海・大高の兵たちの間に入ることとなる。
つまり、自ら挟み撃ちに合いに行くようなものだ。
――しかし、
と信長は体を反対に向け、東側に広がる小高い山々を見た。あの山々のうねりは尾張と三河の境界辺りまで連なっている。
今川勢はこの山並みの向こうからやってくる。もし付城を造らなければ、奴らは鳴海を越えて適当な平地に陣を敷くことになるだろう。
今川家の力なら、無理をせずとも一万や二万は動員することが出来るはずだ。
対してこちらは織田の家をまとめたとはいえ、一万もの兵力は持っていない。
平地での戦いは圧倒的に不利だ。
それに比べ、山間部に大軍を引き込めば、今川勢は兵数を活かした陣形を作ることが出来ず、こちらは局地戦を展開できるため、まだましといえる。
(だからといって、まだ勝てるわけではない)
信長はそれについてもある構想をもっている。吉乃にトンボの話をしていた時に思い浮かんだことだ。
信長は吉乃の柔らかい耳たぶに指を挟んだあの一瞬を思い出した。
――あのときの吉乃の顔、あれが必要なのだ。
(暑い)
潮の匂いが鼻腔をくすぐる。信長はもう一度鳴海城の方に目を向けた。鳴海城の向こうには、もくもくと立ち上がるような雲があった。入道雲だ。
(田植えも終わり、もうすぐ梅雨か。田の稲がよく育つような天気であればよいが)
小姓から手巾を受け取ると自ら体を拭き、青空を見上げながら、信長はそう思った。
左右では小姓が大団扇を扇いでいる。
(鳴海の城から見ているのだろうな)
そう思うと少し小気味よく感じた。
鳴海城のある丘陵地の麓には青い稲の葉が点々と続く水田しかない。道は水田の中を通る畦道だけだ。広い道でも馬一頭くらいしか通れない。そして黒末川の流れが信長のいる中島の洲を隔てている。
中島には何軒かの村落があるが、これだけ見通しのよい場所だと、兵を向けることはもちろん、家屋などに隠れて弓や鉄炮で狙い撃ちすることも難しいだろう。
「もうよい」
大団扇を動かす小姓に言い、立ち上がると信長は、手早く上衣の両袖を通した。
周囲の山々を見てみようと信長は思っている。
「馬!」
信長の声に、すかさず馬の
馬に跨ったとき、信長はこれから向かう山の谷間からこちらへ流れ、この中島で黒末川に合流している小さな川の名を知らないことに気づいた。
「誰か、この川の名を知っておるか」
背後にある川を指差しながら信長は家臣たちを見回した。信長の大声は鳴海まで聞こえるのではないかと思えるほどよく響く。しかし家臣の誰もが俯き、答えようとしない。
信長の顔色が変わりかけたその時、
「恐れながら申し上げます。てごし川と申します」
信長に負けないほどの
「その方、名は」
「藤吉郎と申します」
雑務で来ている小者たちの中に声の主がいた。男は掻き分けるように走って信長に近づき、片膝立ちで頭を下げた。ああ、この男か、と信長は思った。たまに顔を見かけるし、名前も聞く。
「藤吉郎、てごしは漢字でどう書く」
「手を越すと書きます」
「ほう」
信長は感嘆したような声を上げた。手越とは敵の手を上回る、相手を越えて勝つという意にとれる。
「その名や良し」
信長は笑顔でそう言った。
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