第29話 茶室にて 信玄の名の由来
飛び石の途中に
親徳が茶室に入った頃合いを見て、次の客となる三浦正俊が立ち上がる。
三畳半の茶室は薄暗く、かすかな
やがて茶道口といわれる亭主側の出入り口の引き戸が開き、義元が挨拶に現れた。
「本日は貴殿らの日頃の労を
義元の口上の間、客の四人は少し俯き、静かに耳を傾けている。
「本日の評定は長丁場だったゆえ、お疲れであろう。まずは
温石とは温めた石を布などでくるみ暖をとった道具をいう。禅宗の僧は懐中に入れて空腹をしのぐために使った。現在の懐石料理の語源だといわれているが、永禄の時代に住む義元は、当然そのことは知らずにこの言葉を使っている。
義元は再び頭を下げ、一旦茶道口から席をはずすと、今度は膳を前に引き戸を開けた。膳には少量の白飯、鶴の身が入ったみそ汁、そして鰹の生姜酢漬けの椀が乗っている。
義元は自らその膳を持って朝比奈親徳の前に運ぶと、親徳も一膝進め、両手で義元から膳を受け取る。義元は一人一人に自ら膳を渡していった。
「鮎、ですか」
朝比奈親徳がつぶやくように言った。
最初の膳の途中で義元の酌による酒が振舞われ、エビを
「ああ、まだ旬の盛りとはいえないが、今日はいいものが来たそうだ」
義元が答えた。今回の茶会に関しては、彼自身が直接食材から調度品まで指揮を執っていた。
「そういえば、今年初めてですな。鮎は」
そう言いながら親徳は、塩焼きにした鮎に匙で蓼酢を少しかけ、頭からガリリと噛んだ。
「うん、この苦味」
親徳の声は本当に美味そうだ。しばらくもぐもぐと口を動かしていたが、
「そういえばここ最近富士の御山がよく見えます。ついこの前まで春霞が覆っていたように思っていましたが」
前述のように今川館の茶庭は富士山を借景にしている。だが雨や曇りの日はもちろん、晴れた日でも雲がかかっていたり、霞が空を覆っていたりで富士が見えないことがよくある。しかしこの日の富士は、はっきりとその山容を天に突き出していた。
「確かに、今日は頂上にある雪の白さもはっきりと見え申した」
三浦正俊が親徳の言葉を受けた。彼は鮎の背ビレ、胸ビレを取り、身をほぐすように何度か箸で押さえると、次に尾ビレを外し、身を押さえながら頭を引いてスルリと器用に骨を抜いていた。
「そう、そういえば富士の向こう、武田の大将が得度を得たそうな」
義元が言った。
得度とは僧侶になることをいう。食事をしていた四人の客は一斉に正面の義元に目を向けた。彼は亭主のため自らの膳は前に置いていない。客に酒を注ぐための急須に似た
「ほう、そのこと葛山殿はご存じか?」
朝比奈親徳は顔を横向け、葛山氏元に目を向けた。箸を動かしていた氏元は軽く一礼し、
「はい。武田の主君信濃守殿は、この春に瑞雲山長禅寺において得度を得ました。院号は
氏元の返事に親徳はさらに言葉を返し、
「ほう、しんげん。どういう字でござる」
「はい、しんは晴信ののぶ、げんは唐の
「ふむ、それで武田信玄か」
氏元と親徳の会話を聞きながら、義元は(大層な名だ)と思っていた。
臨済義玄は臨済宗の開祖であり、関山慧玄は臨済宗妙心寺派の開祖だ。青年期に臨済宗の僧となり、京の妙心寺で修業をしたことがある義元にとっては。どちらも馴染みのある名前といえる。
武田の家臣が訪ねてきたとき、武田晴信が出家し、信玄となったという口上は聞いていた。しかしその意味合いまでは知らなかった。
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