第30話 茶室にて 信玄剃髪の理由

「聞くところによると、武田殿は剃髪しなかったとか」

 三浦正俊が氏元に顔を向ける。

「それは、事実でござるか」

「事実、と聞いております」

 氏元も正俊に顔を向け、答えた。

「剃髪は儀式に止め、実際に髪は剃らなかったと聞いております。なんでも諱を付けられた岐秀元伯ぎしゅうげんぱく和尚が、仏法の悟りを開くことで、隠遁の心が生ずるのはいかがなものか、と言われたと、そう聞いております」

「ほー、上手いことを言う」

 親徳が感心したような声を上げ、苦笑した。

 正俊、氏真も関心をもった顔をしている。

 まあ元々あの男が坊主になるとは考えられなかったが、と義元は心の中でつぶやき、

(大方、自分が剃髪することで、新たな民の信用を得ようとする腹なのではないか)

 と思った。

 領土の拡大を続けている武田にとって、新しい領民の統治は常に頭の痛い問題だ。

 例えば十年以上前に手に入れた信濃も、諏訪明神の大祝おおほうりと呼ばれる神官家だった諏訪頼重を攻め、諏訪家を滅ぼしたことで領民の反感が広まった。ために信玄は頼重の娘を側室とし、子を産んだ。諏訪家の血を取り入れることで領民の心を和らげるという意味合いもあったのだろう。(ちなみに、この子が後の武田勝頼だった)

 他にも、僧侶となったことで、戦や経営で大義名分ができるというメリットがある。

 仏の命ずるままに、や、仏の御加護をもって、など、どんなことでも仏で理由づけが出来る。また、敵に対しても『仏罰』という言葉で対抗できる。

 義元は一度僧になって還俗した身のため、また僧に戻ることは考えていなかったが、信玄のこの方策は事情が分かるような気がした。


 その後酒の肴として鮎の塩辛であるうるかと焼き味噌が出され、料理の最後に山芋のとろろと飯、香の物の膳が出された。そして菓子として羊羹が出され、一旦退席となった。

 亭主の義元は茶の湯の準備を始め、客の四人は再び待合に入る。

 ちょうど日の落ちる頃で、西の空は赤く染まり、富士のある東では紺色の闇が迫ろうとしていた。庭の灯篭には明かりが灯っている。

 日がすっかり暮れ、空全体が暗くなった時分に数寄屋の方から銅鑼の低い音が鳴った。主客の位置にいる親徳が待合を出ると、外に控えていた小姓が灯のついた手燭を差し出した。

 茶室には燭台が置かれ、ほのかに明るい。むしろ夕方よりも明るくなっているようだ。

 風炉ふろには炭がおこり、茶釜の中で徐々に沸き立つ音が聞こえてくる。

 濃茶が始まる。

 亭主の義元は茶入れから茶を取り、言った。

「本日の茶は葛山殿の地を産としている。まずはこの茶葉を供していただいた葛山殿に御礼を申し上げたい」

 義元が氏元に頭を下げると、他の客三人も氏元に顔を向け、頭を下げる。氏元も両手を膝につけ大きく頭を下げた。

 義元は馴れた手付きで茶を練り上げる。現在は吸い茶と呼ばれる回し飲みが主流だが、これは千利休以降のもので、当時は一人一人に茶を練っていた。

 義元も主客の親徳から順番に茶を点てていった。最後の氏真に茶を渡した後、しばらく間を開け、口を開いた。

「さて、ところで、越後の長尾勢は、今頃どのあたりかな」

「そう、四月三日に五千の兵を引き連れて出立したとのことですから、越前には入っている頃でしょう」

 朝比奈親徳が答えた。いわばこれがこの席の本題といえる。

「葛山殿」

 親徳は氏元に顔を向ける。

「相模の北条の動きはご存じか?」

「されば、北条にこれといった動きはないように思われます」

 丁度茶を飲み干したところの氏元は、茶碗を畳に置いて答えた。

「ふむ、しかし北条もこのことかなり気に掛けておるだろうな」

 義元が言うと氏元は義元に目を向け、

「確かに、そう聞いております」

 前述したことだが、長尾(後の上杉)と武田の争いを憂いた将軍義輝は、二人に和睦を要請する御内書を発した。義輝はその際、義元と北条氏康に仲介を要請する御内書も送っている。

 しかしこのとき、北条も越後の長尾とは敵対関係にあった。

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