第28話 待合の人々

 これまで義元は、松平家の当主である元康の元服では烏帽子親となり、元の字を偏諱へんきして元信と名付けた。(元康の名は結婚を機に祖父清康の康を偏諱して改めた)さらに義元は自らの姪を元康に嫁がせ、血のつながりを強めた。義元の命により元康は初陣も果たしている。

 そのどれもが松平元康をそれまでの人質ではなく、今川家の家臣として扱うということを内外に示していた。

 そして今回の義元の命令は、三河を家臣松平家の領土という形で今川家が支配するということを明言したともいえる。

 義元にすれば単にいい機会だから、ということになるが、朝比奈親徳としては松平の後見役としての立場を明文化することで、三河という領土の権益をしっかりと手に入れたいというところだろう。

 今このような形でも義元の言質を取っておけば、元康はもちろんもう一人の相談役である関口親永に対しても押しが効く。

(多分朝比奈にとっては、三浦内匠たくみのこともあるのだろう)

 三浦内匠助正俊は義元の嫡男氏真の傅役頭もりやくがしらだった。氏真が今川家当主になった今、そのまま補佐役になっている。このままだと三浦に権勢が集中し朝比奈の勢力が弱まるかもしれないと焦っているのではないかと、義元は推測している。

(これくらいの手回しは確かに必要なのだろうが、そのためにずっと待っていたとは、ご苦労なことだ)

 義元は微笑みを浮かべて隣に座る古参の家臣の顔を見た。親徳の目は今も鞠の行方を追っている。

「よかろう。元々は余からそなたと関口に頼んだことじゃ」

「はっ」

 親徳は頭を下げると一瞬義元に顔を向け、そしてまた正面に目を向けた。

 遠くで鳥の甲高い鳴き声が聞こえる。あれはカワセミだろうか。義元は再び鞠庭の方へ目を向けた。ポーンと鞠が高く跳ぶその向こう、今川館の屋根瓦が幾層にも連なっている。青い空には雲ひとつ見えない。

「いい天気だな」

「はい、絶好の蹴鞠日和ですな」


 今川館には茶室がある。

 茶の湯は禅宗を日本に伝えた栄西によって中国から持ち込まれ、禅宗の広がりと共に普及していったという。元々禅宗の僧侶だった今川義元にすれば、馴染み深いものだったのだろう。

 茶室は今川館の東側に数寄屋で造られ、客が席入を待つ待合が既にあったという。

 その日、定例の評定が終わると、茶事の客たちは待合に集まった。

 待合の前には魚板ぎょばんがあり、客は待合に入る前にこれを叩いた。禅宗の寺で時刻の合図などに使ったもので、魚の形をした板を木槌で叩いて音を出す。魚は目を閉じないことから不眠不休の象徴であり、修行僧の怠け心を戒める装飾として意匠された。そして魚板は客が来着したことを亭主に知らせる道具だった。

 これといった客順はない前提だが、一応正客の位置に朝比奈親徳が付き、三浦正俊、葛山氏元、そして末客には今川氏真が席を温めている。

 待合からは庭が一望できる。

 前景に富士川を模した泉水が流れ、中景は三保の松原を模した松林と白い玉砂利の砂浜。そして富士の高峰が借景として遠くにそびえ立つ。

 つまりは『駿河づくし』になっている。

 田植えも一段落し、そろそろ梅雨の訪れが気になるこの時期、申の刻に評定が終わっても日が暮れるまでにはまだ時間がある。四人はさしたる会話もなく白湯などを飲みながら席入せきいりを待っている。

 やがて、義元が来た。

 四人はゆっくりと立ち上がり、義元と黙礼を交わす。そして一旦義元は茶室の方に戻り、四人は元の座に戻る。

 しばらくの間。

 頃合いを見計らった正客の朝比奈親徳が立ち上がり、残る三人に頭を下げ、飛び石に沿って茶室へと歩き始めた。

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