第26話 鞠庭にて 長尾と武田と、将軍義輝

 景虎は天文二十二年に一度上洛している。

 この時彼は当時まだ義藤の名だった足利義輝に朽木谷で謁見し、京では後奈良天皇の拝謁を許される事ができた。

――あの男なら、

 義輝は景虎の忠誠心をかなり高く評価していたらしい。景虎に対立している武田晴信との和睦を勧告する御内書は、景虎だけでなく、当然晴信にも送っている。二月に元号が永禄となる弘治四年(一五五八)一月のことだ。

 晴信は、自身の信濃守護職任官と嫡男の義信が三管領に准ずる位を与えられるよう条件を出す。義輝は飲んだ。

 武田と長尾は和睦し、晴信は返礼としての金銭や贈答を将軍義輝に贈った。

 しかし、偽りの平和は一瞬のうちに終わった。ひと月もたたぬ間に武田軍と長尾軍が信濃国境で衝突。義輝は晴信に詰問状を送るとともに、義元と氏康に和睦の斡旋を依頼したという流れだ。

(武田は、忸怩たる思いだろうな)

 義元自身、義輝の長尾贔屓には苦笑するような思いがあった。

 だが、当然義輝が感情だけで動いているのではないことも分かっている。長尾景虎が味方であり、義輝が頼めばいつでも軍勢を引き連れてくると喧伝することで、対立している三好勢に圧力をかけることができるのだ。


 義元の推測が正しいことを裏付けるような動きが将軍義輝にあった。永禄元年(一五五八)五月三日、南近江の守護大名六角義賢よしかたの支援を受けた将軍義輝と細川晴元は、三千人程の軍勢を引き連れ、朽木谷から坂本へ移った。

 翌六月に軍勢は南下し、京都東山の一峰で、大文字山を支峰にもつ如意ヶ岳に陣を敷いた。

 この山、現在も京都市内を一望できる人気のビューポイントとなっている。京の動きを把握するのに最適な場所だった。

 一方、三好長逸ながやす、松永久秀の三好軍は将軍義輝が京に戻るのを防ぐため、京都一乗寺の瓜生山に築かれた勝軍山城しょうぐんやまじょうに陣を敷いた。将軍の陣からだと北に回り込んでこちらを睨む布陣といえる。義輝はこれを撃破するため兵を動かし、三好方もこれに対応。両軍は鹿ケ谷で激突した。

 戦いは一進一退を繰り返した。始めは義輝の幕府側が優勢で一時は勝軍山城を攻略したが、逆に三好方は手薄となった如意ヶ岳に進出。両軍陣地が入れ替わった形から白川口で戦うことになった。この戦いは熾烈で、特に幕府軍は多くの将を失うことになった。たまらず幕府軍は勝軍山城に撤退している。

 その後も幕府軍と三好軍は小競り合いを繰り返していたが、膠着状態が続いていくことで、次第に厭戦気分が蔓延していった。

 そして十一月二十七日、六角義賢の斡旋により和睦が成立し、将軍義輝はやっと京に戻ることができた。

(武田の期待するようにはいかなかったということだ)

 だがそう思う義元も、将軍義輝が京に戻ることができる確率はそんなに高くない、という見方をしていた。

 将軍入洛の報を聞いたとき、越後の長尾が幕府軍の援軍としてやってくるという情報も少なからず影響したか、と義元は推測した。戦いが長期化したことで、三好長慶はいつ長尾軍が来るかと、次第に戦々恐々となっていったのだろう。だとすれば、将軍義輝の作戦が成功したという見方もできる。

 いずれにしても、三好長慶は独自の京都支配から、幕府内で勢力を得る方に方向転換したといえそうだ。

 和睦の前に義輝は、武田晴信に向けて詰問状を送っている。晴信はこれに対し、長尾景虎の方が信濃に出兵してきたのだと弁明している。

 しかし、これはやや苦しい。

 武田にすれば、長尾は上洛できない状態でいる方がいいと思っていただろう。たとえ長尾が強行して上洛軍を起こしたとしても、戦力が分散されるということで、武田には都合が良い。武田にとって最悪なのは将軍と三好の戦いが終息し、平和状態の京に長尾軍が入洛することだろう。

 そしてまさに今、そうなろうとしている。

 景虎の位階と政治力が格段に上がることは間違いない。幕府や朝廷との人脈もさらに広く濃くなるだろう。

(かといって武田の方から戦を仕掛け、上洛している長尾軍を帰らせるように仕向けるのは、完全に愚策だ)

 武田は指をくわえて見ているしかないか。いや、そんな余裕もないと思われる。

 長尾は将軍に再会する。天皇の拝謁もあるだろう。その際、長尾は幕府の正規軍としての認証を受けるはずだ。つまり、長尾と戦うということは幕府や朝廷に弓を引くことと同義になる可能性があり、下手をすると武田が賊軍として名指しされる恐れさえある。

(やはり武田がどう動くか、予測を立てる必要があるか)

 庵原元政から報告を聞いた時点で、義元はそう考えていた。

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