第22話 信長の改革 三間半の槍

 もちろん、こういった情報は義元の耳にも届いている。しかし、義元の評価は信玄のそれとは違っていた。

『品がない』

 と彼は思った。

 舞は幸若舞の一説だけと聞けば、

『偏っている』

 と思ってしまう。庶民芸能の小唄などは彼にとって論外だ。また、鷹野の話も、義元にすれば同じ事だといえる。

『数多く鳥を獲ればいいというものではない』

 義元にとって鷹野とは武将のたしなみであり、軍事教練の一環だと認識している。

 つまり、格と規律だ。

 その点において、家臣に斥候や農民の真似事をさせるのはまだ理解できる。しかし、主である信長自身が馬の影に隠れて鳥を獲るというのはどうか。およそ主君という者は鷹野においても堂々とした態度を取り、鷹を侍らせるその姿が威風を帯びたものでなければならない。たとえ鷹野であっても、家臣に畏敬の念を抱かせるのが本筋ではないか、と思っていた。


 義元を唸らせ、考え込ませた話もある。

 一つは三間半さんげんはんの槍。

 信長は、十五、六歳の時に三間半(約六・三m)の長槍を開発した。当時最強といわれた上杉や武田の軍勢は三間(約五・四m)の長柄槍を使い、今川においても最長はその位であったが、信長勢はそれよりも三尺(約一m)ほど長い。

 槍衾やりぶすまという言葉がある。

 戦国時代、戦いが一騎打ちの個人戦から徒武者かちむしゃ(歩兵)を中心とした集団戦へと変化していったことを象徴する言葉だ。足軽を中心に槍隊を組み、一列に並んで敵陣に向かって進軍したり、敵の攻撃を食い止めたりした。

 列になった集団が長い槍を前に前進してくる様は、想像を絶する恐怖だったのではないだろうか。

 しかし、長柄槍をもつ足軽の多くは農民だったという。戦闘技術が低いからこそ、このような戦法が生まれたのだろう。槍の長さの差は戦闘力として大きな違いになったに違いない。

 当然、槍は長ければ長いほどいいというものではない。重さが加わることで機能性の問題が発生する。信長が採用した槍は、よく乾燥させた細い木柄に赤や黒の漆を塗り、強度と軽さを両立させた。

 義元を唸らせたのはこの場合、信長の持つその技術力だった。考えるだけなら誰でもできるが、実現させるのは難しい。

 しかも信長は、作るだけでなく訓練を徹底して行った。信長自身が領地の農民たちを編成し、自ら督励してまわった。

 ――強くなるかも知れぬ。織田勢は。

 この話を聞いたとき、義元はそう予感した。


 後に道三と名乗る斎藤利政の会見時の報告にも、義元は黙り込み、聞き入った。

 信長二十歳、天文二十二年(一五五三)四月下旬。父信秀が亡くなって一年後のことだった。

 利政はどうやら婿である信長が、世間で言うところの『たわけ』であるかどうか、この目で確かめようと考えたらしい。

 この年うるう一月に彼の後見役である平手政秀が自害していたことも影響があるようだった。

 信長の日頃の行いに悲観した政秀が、諫言のために腹を切ったという噂は、利政の美濃だけでなく義元のお膝元である駿府にも流れていた。

 会見の場所は美濃と尾張の国境付近にある富田とだ(現愛知県一宮市)の正徳寺しょうとくじ(現聖徳寺)。

 利政は、約束の刻限よりかなり早い時間に到着していた。招待する側、というだけではない彼なりの準備がある。

 彼は古くからの家臣七、八百人に、触れれば切れそうなほどに折目のついた肩衣、袴の正装をさせ、門内から廊下、御堂までズラリと並べさせた。

 話に聞く珍妙な姿であろう信長を、強烈な威圧感の中で歩かせようという算段だ。

 利政は信長が本当にたわけなら笑ってやり、その気になれば首を取る、と考えていた。

 それは彼にとって悪戯のような心持ちだったが、首を取る、という気分も半ば本気の気配があった。

 利政自身は小数の家臣だけを引き連れて正徳寺を出ると、町外れのあばら屋に潜んだ。信長がどんな姿で、どんな軍勢を引き連れてくるのかを自らの目で見ておきたかった。

 行列が、来た。

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