第20話 信長の青春時代

 松平が今川に完全服従するということは、三河が今川の属国として確立することを意味する。

 点在する三河の小豪族は、これまで数々の抗争を繰り返してきた。しかし今川の家臣が三河に介在し、着実に豪族たちを鎮圧、支配を進めている。

 今川の大義名分は三河の安定であり、具体的には三河の最大豪族である松平家を支援する事だった。松平元康が松平家の当主となれば、三河全域は松平の領地として今川に従属することが確実となるだろう。

 そして、今、三河は今川のものになろうとしている。

 三河が安定すれば、次に狙うのは尾張だ。今川の領土侵攻がますます現実のものとして近づいている。

 この時期の信長、岩倉城の後始末は柴田勝家に任せ、自身は馬で遠乗りをしたり、長い時間ゴロゴロと横になっていたり、少数の家臣を連れて清須城下を見回ったりしていた。

 要は、ずっと考えている。近い将来尾張に侵攻してくる今川家に対して、どういう対策をしていくか。

 まだいい案は浮かばない。しかし、時はない。



 岩倉落城を伝える急使が駿府に到着した。

 義元は評定の最中であったため使者はしばらく待たされ、評定後、そのまま常御殿内にある評定の間に呼び出された。

 義元、そして氏真はもとより、重臣達もその場に残っている。

「そうか」

 落城の報告に対して義元はそれだけ言った。

 無表情ではあるが、正面で平伏している男をじっと見つめ、動かない。

 義元に見られ続けているその使者は、今川家の幹部たちがズラリと並んでいる緊張感もあり、まるで叱られたかのようにうずくまっている。

「もうよい。苦労であった。下がれ」

 義元側の最前列に座している朝比奈あさひな親徳ちかのりの一言で、男は逃げるように立ち去った。

「やはり、ですな」

 使者が見えなくなってから、親徳が義元に目を向け、言った。

「ああ。尾張のこと、考えねばなるまい」

 親徳に顔を向けると、義元も言葉を返す。

(つくづく誤算であったな)

 と義元は思っている。織田信長という男の資質のことだ。


 元々義元の聞いていた信長像は、ちまたにいう『うつけ』そのものだった。

 信長は吉法師きっぽうしと呼ばれた幼い頃から父母の居住する古渡ふるわたり城を離れ、嫡男として那古野なごや城を居城としていた。

 十六、七歳までの信長は遊びをするということもなく、朝から夕方まで馬の稽古や学問などに励んでいたという。また、水が温む三月から九月までは川で水練をし、身体と心を鍛えた。

 このような鍛錬を毎日続け、いつしか信長は、明敏な顔付きと強靭きょうじんな筋肉をその身に纏うようになっていた。

 しかし、美濃を支配する斉藤道三の息女との婚約が決まる前後から彼はかぶいた。

 両袖をバッサリ切った湯帷子ゆかたびら(現代でいう浴衣)を着、丈の短い半袴を好んで穿いていたという。頭はもとどりを紅や萌黄の糸でグルグルと巻き、髪が抹茶を混ぜる道具である茶筅ちゃせんのように上に跳ねた茶筅まげ。荒縄を縛るように巻いた腰には、瓢箪や火打石などをガチャガチャと付け、ド派手な朱鞘の大太刀を叩き込むように差していた。

 そして信長は太刀だけでなく、お付きの家来を全て朱色の武具で固めさせた。

 町を歩くとき、信長は人目も憚らず栗や柿、瓜などをかぶりついた。立ったまま餅をほおばり、人の肩によっかかって歩くということもしばしばあったという。

 聞けば聞くほど異様、だった。


 父信秀が亡くなったときの話も強烈だ。

 葬儀は僧だけで国中から三百人は集まったと記録に残っている。織田の一族家臣はもとより様々な人が参列した盛大なものだった。

 しかし、次期当主といえる信長はその中にいない。

 焼香の時にやっと現れた信長を見た参列者たちは、誰もがその姿に息を飲んだ。

 袴も着けない着流しのまま、荒縄で巻いた腰に長柄の大刀、脇差をぶっ込んだいつもの出で立ち。ずかずかと焼香台の前まで歩いて行った信長は、抹香を片手いっぱいにぐいっと掴むと、仏前に思い切り投げつけ、そのまま立ち去っていったという。

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