永禄二年 夏

第19話 岩倉落城

 岩倉城は、落ちた。

 信長の見込んだとおり大きな戦いもなく事は済んだ。

 降伏した城主織田信賢のぶかたは美濃に逐電。残された家臣のほとんどは散り散りとなり、その日から路頭に迷うことになった。

 信長は岩倉城の取り壊しを命じ、清須に戻った。永禄二年三月のことと伝えられている。

 清須に戻った信長は、その足で斯波しば義銀よしかねの屋敷に向かった。斯波氏は足利幕府の将軍に次ぐ位置である三管領かんれいの筆頭。義銀はその十五代目当主であり、尾張守護でもある。

 つまり、幕府の目でいえば尾張は斯波義銀の管理地であり、信長は家臣でしかない。

 信長は寧ろそのことを利用し、義銀を傀儡としている。信長の戦いはすべて斯波義銀の命による尾張の平定のため、という大義名分ができている。

 義銀も二十歳という若さだが、そのことは十分分かっているのだろう。

「大儀であった」

 岩倉落城の報告が終わると、義銀は感情のない声を信長にかけた。

(そろそろこ奴の役目も終わりか)

 と信長は思っている。

 岩倉落城により、信長は尾張の上四郡を手中に治めた。尾張の織田一族をほぼ掌握したともいえる。

 義銀の存在価値は、もうない。

 信長の目は既に今川勢の動向、そしてその最前線となる尾張南東部を見つめている。


 信長にとってこれまで最大の敵は美濃だった。

 しかし岩倉城を攻略したことによって、美濃はしばらく動きを静めるだろう。岩倉城主だった織田信安は美濃の斎藤義龍と意を通じ、信長に敵対していた。しかし信安は子の信賢に追放され、信賢も岩倉城を追放された。

 美濃としては、信長の次の動きを警戒するしか手はない。

 また、美濃が様子を見るのは織田だけでなく、駿府の今川の動きもある。

(美濃も、今川が動くと見ているだろう)

 これまでは尾張の中で織田家同士が争っていたため、今川が積極的に動くことはなかった。変に動いて織田家に結束されるのは下策だし、何よりも尾張全体の力が弱まることによる漁夫の利を狙っていたからだ。

 しかし、信長が織田家を統一したことで、この状況が一気に変わる。

 今川義元は何らかの行動を起こしてくるだろう。山口教継のりつぐ教吉のりよし父子における義元の裁断は、今川が尾張に侵攻するための布石だと推測される。

(義元は、俺がやったということを分かっていたのだろう)

 今川の素早い対応がそれを物語っている。

 山口父子が本当に裏切っていたかを詮議するなら、それなりの時間がかかることになる。

 しかし、戸部政直のときもそうだが、義元はすぐに手を下した。鳴海城や戸部城といった尾張南部の城は、今川家臣で固めておきたいのだろう。

 義元にすれば〝好機〟だったに違いない。

 もちろん信長はその可能性も考慮に入れて実行はしている。山口父子が消えることによって、織田家中の今川への内通への道を一つ閉ざしたといえる。同時に、今川への内通は割に合わないということを家臣たちに感じ取らせただろう。

 信長は、三河の松平元康に男子が生まれたことも、今川家臣の後ろ盾で三河支配を義元に認められたことも知っている。今は三河の定書さだめがきを書いているようだ。

 駿河に放っている間者からの報告は定期的に届いている。

 あの小童こわっぱに子どもが、という感情はない。

 信長は幼いころの元康に何度か会ったことがある。しかし、そんな感慨をもつ余裕はなかった。これで三河は名実ともに今川のものとなるという事実だけを噛みしめている。

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