第18話 松平元康の謁見
「は、小河、刈屋ともにこれといった動きは見えません。水野も情報収集に努めていると思われます」
この場合の水野は、小河城(現知多郡東浦町)城主の水野信元と、刈屋城(現刈谷市)城主の水野信近の両方を指している。大高の水野氏に対して本家といえる立場にある。
この二人は水野忠政を父とする実の兄弟で、信元が兄であり、家督を継いでいた。
両城は知多半島の東側、尾張と三河を分ける境川から流れこみ、当時は海だった衣ヶ浦の両岸に築かれていた。西岸、知多半島の付け根辺りに小河城が位置し、東岸、三河側に刈屋城がある。
城の位置が表すように、水野家の領する地は尾張と三河にまたがっていた。自然、尾張の織田家、三河へと領地を広げている今川家などとのパワーバランスの中で独立を続けている。
具体的には小河城の兄信元は織田方、刈屋城の弟信近は今川に通じている。
「小河の信元などに不振な点はないという事か」
これまでも小河城は今川系に囲まれた状況だったが、鳴海城が完全に今川家のものになったことで、さらに孤立した形になっている。
このことで水野信元は今川に接近をはかってはいないかと信長は聞いている。
「はい、当方の調べでは」
そうか、と信長は呟くように言うと、
「山口親子の件、当方が企てたということを噂で広げよ」
「はっ?」
政綱の声が疑問の色を帯びる。
山口教継の筆跡を真似た偽手紙を作り、今川方に渡るよう図ったのは政綱自身であり、実行したのは彼の配下だった。当然信長からの命による極秘の行動だった。
「よろしいので」
理解できない、という意識が政綱の声音に表れている。
信長はそんな言葉をニヤリと歯を見せることで返した。
信長は政綱に詳細な指示を与える。それは思いのほか単純な手口だった。最後に簗田政綱は深々と頭を下げた。
柴田勝家は、すぐに行動した。
彼は筆頭家老の林秀貞と共同で家臣を招集し、信長臨席の元で岩倉攻略の評定を行った。
この評定で勝家は、岩倉城攻めの大将代理としての任命を改めて信長から受け、自ら家臣それぞれの配置を決めた。
そして翌日には岩倉城へ進軍。城下に火を放ち裸城とした上で、四方を二重三重の
この間、岩倉からの反撃は無い。柵や石垣の向こうから信長軍の動きを見つめる目だけがあった。
この日から常に警備の兵が城を囲み、夜は篝火が岩倉城の周囲を焦がした。
同じ頃、清須はもとより、熱田、鳴海周辺、そして小河から三河の刈屋まで、ある噂が広まっていた。
それは、山口父子の死に関することだった。
彼らは今川に背いておらず、実は織田信長が仕組んだ策略だった。信長は山口教継の筆跡に似せた偽手紙を今川方に渡るようにし、まんまと成功したという。
この噂には、二つの後付けがあった。
一つは今川義元がマヌケだったという結論。
そしてもう一つは、義元も実は信長の策略だと分かっていて、利用したという推測だった。
義元はかねてから鳴海周辺を自分の家臣で固めたい、と思っていた。そんな時うまい具合にこの話が入ってきた。義元はこれ幸いとばかりに山口父子を誅殺した。義元は自身の家臣のみを頼み、外様を取り込もうとは全然思っていない。
二年前の戸部政直、そして今回の山口父子のことで、この解釈は結構リアルなものとして広まっていった。
「そうか。母子ともに息災か」
今川義元は喜びの声を上げた。駿府今川館の中にある対面の間。彼の隣には今川家当主になっている嫡男の氏真が座し、二人の左右には駿府城中の重臣たちが座を連ねている。
「はい。おかげさまにて」
二人の正面で平伏している松平元康は緊張の面持ちで声を上げている。
三月六日、松平元康に初めての子供が生まれた。男の子だった。この日はその報告のために登城していた。
「
義元は満面笑顔のまま、列の中にいる関口
「御意にございます」
平伏した頭には白髪が多い。しかつめらしく答えているのは家臣としての立場からだろう。
関口氏は元々今川家から枝分かれした家で、親永は義元の妹を妻としていた。つまり義元にとって元康の妻瀬名は姪にあたる。
「これは松平家にとってはもちろん、我が今川家にとっても吉報じゃ。そなたの
「は、ありがたき御言葉」
正面の義元に対し、平伏している元康はさらに頭を下げる。
「ときに、祝いを贈らねばならぬな」
義元は横にある脇息を前に置くと、脇息に両肘をのせ、くつろいだ姿勢のまま体重を預ける。
「次郎三郎、何か欲しいものはあるか」
義元は元康を通称で呼んだ。
「は、いえ」
平伏したままの元康は少し逡巡するような素振りを見せる。
フッ、と義元は笑みをこぼすと、
「祝いの品は余が直々に吟味する。待っておれ」
「は、ありがたき幸せ」
「それとな」
「は?」
「嫡男も生まれた。そろそろ
名指しされた関口親永、そして丹波守の官名をもつ朝比奈親徳が「はっ」と頭を下げる。
義元は満足そうに一つ頷き、
「次郎三郎、其方も存じているように五郎は家督を継いでまだ日が浅い。至らぬことも多いであろう。其方には五郎の片腕になってもらいたいと思っておる」
義元は五郎という通称で呼んだ息子氏真に顔を向け、諭すような声を元康に向ける。元康は平伏しながら体をさらに硬くしている。
「余は期待しておるぞ。次郎三郎」
「はっ、」
元康は絞り出すような声で返事をし、
「ありがたき幸せ」
と言葉を継いだ。
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