第16話 清須の信長 浮野の戦い

 二月七日の昼過ぎに京を立った信長勢は、雨の降るなか東へ向かい、近江守山で一泊した。そして夜明け頃、まだ降り続く雨の中を出発。相谷あいだにから八風はっぷう峠を越え、清須までの二十七里を一日余りで踏破した。着いたのは二月九日の寅の刻、まだ夜明け前だった。

 清須城に戻った信長は、その足で評定の間に入った。中では既に林秀貞と柴田勝家が平伏して待っていた。

「どうか」

 腰を下ろすと同時に信長は言った。

「将軍拝謁の段、執着至極に存じます」

 林秀貞は平伏したまま言った。信長の顔から表情が消える。同じく隣で平伏している勝家の体がやや緊張した。

 林秀貞は『おとな』と呼ばれる織田家の家老衆の筆頭とされていた。

 彼は信長の祖父信定の代から織田家に仕え、信長が吉法師と名乗っていた幼少の頃から筆頭の傅役だった。

 しかも、彼は信秀の死後、弟の林通具みちともや柴田勝家などと共に、信長の弟信勝を擁立しようと画策した過去を持つ。

 結果、林通具は戦の中で信長自身に討ち取られ、信勝も信長によって暗殺されることとなった。永禄二年二月のこの時は、信勝暗殺からまだ一年半も経っていない。

「留守中大儀であった。報告はあるか」

 信長は真顔で聞いた。正面の二人はおもてを上げ、

「先に急使にてお伝えした鳴海の件、岡部五郎兵衛が城主となり、城はこれといった悶着もなく落ち着いております」

 林秀貞が何も気付いていないという風情ふぜいで答えた。

「山口の家臣たちに不審な動きは無いということか」

「はい、岡部や三浦などにすれば、むしろ拍子抜けかも知れませぬ」

 秀貞の言葉に信長は頷き、

「岩倉はどうか」

 柴田勝家に目を向けた。

「は、これといった動きはございません。殿のご推察の通り、岩倉勢はもう対抗する力は残っていないと思われます」

 勝家は上目遣いで答えた。

 信長が上洛の際、もしもの為に勝家は留守居とした。この時信長は勝家に、

「岩倉は上洛を知っても動くこと叶うまい。しかし警戒は怠るな」

 と指示していた。勝家はそのことを言っている。

 実際、織田信賢のぶかたが城主の岩倉城は、まだ信長との戦いによる傷を癒すことが出来ずにいた。

 士気が上がらず、人数の補充どころか逆に家臣の離散を招いている始末。このとき既に虫の息だったといえる。


 信長が本家筋にあたる岩倉織田家に攻撃を仕掛けたのは、永禄元年(一五五八)七月十二日のことだった。

 このとき岩倉城は織田信賢が城主になったばかりだった。彼は長男であったが、父親の織田信安は家督を弟の信家に譲ろうとしていた。信賢は機先を制し、父と弟を追放した。信長はこの内紛に乗じた。

 清須から二千の兵が城を出た。岩倉までは北へ四キロ程度。しかし信長は、悪路を避けて進軍するという理由で直進せず、一旦西方向から北へ廻る迂回路をとった。わざわざ十二キロ近くも行軍している。敵を城からあぶり出し、野戦に持ち込むためだ。

 信長軍は岩倉城から北北西約五キロにある浮野(愛知県一宮市)という地に留まった。見晴らしのいい平坦地だ。

 信長は浮野に着くとすぐに足軽隊に命じ、城の周囲の村を焼き、実りが近い稲穂をメチャクチャに刈り取らせた。

 岩倉方は、挑発に乗った。三千の兵が出陣した。当然ながら岩倉の斥候が清須出陣の様子を偵察しており、信長軍の兵数も信賢の耳に入っていた。

 が、当初数では勝っていると思っていた岩倉勢はすぐに誤算を知ることになる。信長の従兄弟いとこである犬山城織田信清が援軍として現れていた。その数一千。

(勝った)

 と既に信長は思っている。

 出るだろう、とは思っていた。城主が変わったとき、新しい城主は何らかの華々しい戦歴を作りたがるものだ。ことに信賢のように争いの上で城主になった人間は尚更だ。

 岩倉方が城を出た時点で、犬山の援軍は察知されなかったろうと予想できた。また、浮野というなんの障害物もない平地では、先に陣形を作り、万全の態勢をとった方が勝利を得ることは、火を見るよりも明らかだ。

 戦いは真昼、岩倉勢が浮野に到着してすぐに始まった。

 信賢軍は陣形を作る余裕もなく信長方の猛攻に遭ってしまった。信賢軍は終始圧倒され、数刻の戦いの後、城に逃げ戻った。信長軍は信清軍と共に岩倉城を囲んだが、その日のうちに清須城へと戻った。

 翌日の首実検で岩倉方の侍の首が千二百五十もあったという。

 圧勝だった。

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