第13話 山口教継の回想 織田信秀の死と背信

 山口教継のりつぐ教吉のりよし父子に駿府招喚の令が伝えられたのは、永禄二年(一五五九)一月下旬のことだった。

 鳴海城の城主教吉に先触れがあり、笠寺取出とその周辺で織田との最前線を守っていた父教継と今川家直参の三浦義就よしなり、岡部元信が招集され、鳴海城にある評定の間で使者の口上と書状の受け渡しが行われた。

 口上は、長年に渡る労に報い、義元自らが山口父子をねぎらいたい。また、折り入って話もしたいというものだった。

 その後、酒宴が開かれた。味噌と干物が肴のささやかな宴だ。この四人が顔を揃えるのは久しぶりだった。

「ご奉公が実を結びましたな」

 岡部元信が盃を掲げながらいった。

「いやいや、これもおふた方のお導きのおかげです」

 教継が頭を下げると、教吉も持っていた盃を膳に置き、深々と頭を下げた。

「いや、それがしは何も」

 岡部元信が少し困ったように顔の前で手を振る。

「それにしても、もう何年になりますか。あれはまだ天文てんぶんの頃でしたな」

 三浦義就は父子に少し頭を下げると、二人を見ながら言った。

「そう、もう七、八年になりますか」

 教継はそう答え、少し遠い目になった。

 山口父子は元々織田家の家臣だった。彼らが今川家に鞍替えしたのは天文二十一年(一五五二)。ほぼ七年前のことだ。

 この年三月三日、時の織田家当主信秀が息を引き取った。疫病(伝染病)だったという。信長十九歳、現在の満年齢だと十七歳(まだこの年の誕生日を迎えていないとして)のことだった。

 鳴海城城主であった山口教継とその子教吉が今川家への旗幟を鮮明にしたのは翌四月。

 教継は信秀が特に目を掛けていたといわれるほどに能力が高い人物で、このときの手回しも早かった。次の当主になるだろう信長には見込みがないと見ていた教継は、信秀が亡くなる前にすでに今川家への内通をすすめていた。

 信秀が亡くなると彼らはすぐに行動を起こし、今川勢を自領に引き入れた。

 今川家からは葛山かつらやま長嘉ながよし、岡部元信、三浦義就よしなり、飯尾乗連のりつら、浅井政敏が赴任してきた。このメンバー、例えば浅井が義元の妹婿であったり、飯尾が後の浜松である曳馬城城主だったりと、かなり本腰を入れた顔ぶれだった。

 彼らはまず笠寺周辺に取出や要害を作ることから始める。

 教継も鳴海城城主を息子教吉に譲り、自身は笠寺にほど近い桜中村城に移った。


 信長はすぐに行動した。

 四月十七日、当時の拠点である那古野城から出陣。総勢八百人だった。

 彼にすれば当然の反応だったろう。

 家督を継いだとたん謀反が起こるということだけでもダメージは大きい。その上相手は父信秀が全幅の信頼を置いていた山口教継父子であり、鳴海城という重要な城だ。

 鳴海城は現在だと名古屋市の南端、緑区に位置する。元々織田方の手にあるときは、知多半島から三河国境までを警戒する前線基地のような位置づけだった。

 この地域、水野氏や近藤氏、久松氏などの小豪族が割拠していた。彼らはどこにも属しない独立した領主として領土を保っている。

 しかし実際は、拮抗した勢力バランスの中で絶えず周囲の動きを注視し、自分の立ち位置を補整している。

 鳴海城が今川家の物になるということは、この絶妙なバランスが崩れ、放っておくとまるまる今川に吸収される可能性があった。

 現に山口父子は、戸部城を根城に笠寺周辺を地盤としていた戸部政直を調略した。今川家から錚々そうそうたる武将たちがやって来た事も大きかったが、義元の妹を娶らせるという好餌もあったらしい。

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