第12話 今川義元、即断す

「引導を授けるか」

 つぶやくように言った。白粉おしろいを塗った顔はやや上気し、お歯黒が覗く口から出る淡々とした声には酒の臭いが混じっている。しかし目つきには酔いの色がない。

 今川義元は一枚の書状をじっと見つめている。

「はっ」

 庵原いはら元政もとまさは平伏しながら内心驚きの声を上げた。

(調べないのか)

 と思い、すぐに、

(ああ、その必要がないのか)

 と思い至った。

 引導とは元々人間を含めた生命あるすべて(衆生)を仏の道に導くことで、葬儀の時死者が悟りを得る(死を自覚する)ため法語を唱えることを言う。

 現代でも『引導を渡す』という言葉がある。諦めさせるという意味合いだ。

 もともと臨済宗の僧であった義元は、たまにこのような言葉を使う。義元の側近頭である元政は、確認せずともその意味合いが分かる。

 義元は、死罪を言い渡していた。


 元政が面会を求めたのは、大正月から小正月の間となる日の深夜、公卿や重臣たちとの酒宴が終わったのを見計らってのことだった。義元は不機嫌な顔を見せることもなく奥の間へと移り、表情を変えずに元政からの口上を聞いた。

 義元の手元にある一通の書状は、尾張に潜んでいる間者が手に入れたものだ。義元はそれを見て怒りを覚えているわけではない。むしろ何かを考えている風情だった。

「仕置の方は、いかがいたしましょうか」

 元政が聞くと、

「任せる。よきにはからえ」

 すぐに答えた。

「では、鳴海の城の手配は」

「うん、早いほうがよいな。……あそこには、岡部がいたか」

「は、岡部五郎兵衛ごろうひょうえ殿ですね」

「だな」

「承知いたしました」

 庵原元政はさらに深く頭を下げる。

 体を戻し、ゆっくりと立ち上がると義元から声がかかった。

「ときに、岩倉は変わりないか」

 岩倉とは、本来は信長の主家筋にあたる守護代織田信賢のぶかたの居城岩倉城のことを指している。

「は、動きは無いと聞いております」

「そうか」

 義元は相変わらず淡々とした声を出している。

「あと、織田に一つ動きがございます」

「ほう、何か」

「近頃清須城下および津島、熱田の商人に、絹織物や武具馬具の類いなど、大量の発注があったとのことです」

「ほう」

 義元の声が興味を示し、やや早口になった。

「ということは、御内書に呼応して上洛を準備しているということか」

「おそらく」

「そうか、わかった」

 声は落ち着いている。しかし元政は、燭台の灯りに照らされた主君の顔に僅かな怒りの火がともったのを見逃さなかった。

(やはり、大御所は感づいておられる)

 今回の仕置の件、尾張の織田信長が仕組んだであろうことが。

 以前に同じようなことがあった。このとき裏で企てたのは尾張の織田信長だという噂があった。元政は事実だろうと憶測している。

(性懲りもなく)

 また同じようなことをしたのでは、と元政は思った。大御所様も同じような見方をしているのだろうと察してもいる。

 元政はいとまの言葉を述べると、ゆっくりと立ち上がり、立った姿勢でさらに一礼、自ら襖を開け、廊下へと下がっていった。

 義元は、しばらく脇息に左腕を預けたままじっと座っていたが、

「小賢しい」

 吐き捨てるように口にした。すっかり酔いは醒めている。

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