第10話 永禄南蛮事情

 ヨーロッパの海外進出の目的はもう一つある。

 キリスト教の布教だ。

 フランシスコ・ザビエルが日本に初めて上陸したのが天文十八年(一五四九)。彼は約二年間の日本滞在で精力的にキリストの教えを伝播した。

 堺にも立ち寄ったことがある。

 その後、彼の後を受け、貿易商人とともに宣教師が日本にやってくるようになった。

 そして前述のとおり二年前の一五五七年、日本では弘治三年、ポルトガルは明国からマカオの居留権を獲得した。

 かなり以前(一五一三年)からポルトガルはマカオに根を張り明国と交易をしていたのだが、このことによりポルトガルは明国と対等以上の立場で交易を交わし、日本にも足を伸ばした。

「今日本で南蛮の船や明船が停泊する港といえば、薩摩の坊津ぼうのつ、肥前の平戸、豊後ぶんごの府内というとこでしょうか」

「え、堺。堺には来ませんな。近すぎる言うて京が許さんやろということもありますし、京やこの辺りに勢力を張ってる三好が乗り気やないというのもありますな。確かに何かあったとき私らでは守りきれないでしょう。それに港を開くということは、南蛮人や明なんかの異人を町に住まわすことでもありますから、ほりとかいろんなもんを作り直さなあかんようになるでしょ」

「まあ肥前の殿様なんかは交易を認めて大儲けしてるっていう話ですけどな」

 肥前(長崎)平戸にポルトガルの貿易船が初めて入港したのは天文十九年(一五五〇)だった。肥前を領する松浦まつら隆信たかのぶが交易を認め、平戸城下に明の商人を住まわせた。鉄炮や大砲などを購入し、巨万の富を得たという。

「そう、それと府内。あそこはなんや病人を集めて病気を治すとこが出来たようです。光明皇后の施薬院みたいなもんでしょう」

 現在の大分市である府内にできたその施設は、日本初の西洋式病院であり、西洋医学の発祥といわれている。

 弘治三年(一五五七)宣教師ルイス・デ・アルメイダによって設立した。内科、外科、そしてハンセン病(ライ病)科があった。手術もしたという。彼自身が院長となり、日本初の医学校も併設していた。

 そしてこの病院、誰でも入ることができ、しかも無料なのだそうだ。

「南蛮人にすれば自分とこの宗教に入ってもらいたいからってことでしょうが、ようそこまで出来るなと思いますよ」

「ほんまに。わしらはこんな商売してますから業と欲にまみれていますが、それにしても南蛮人にこれだけのことをさせる向こうの神様というのはどんなもんなんでしょうな」

 確かに、と信長は思った。前日奈良で見た寺院による治安維持の様子もそうだったが、宗教というのは人をどこまでも献身させるものらしい。

 まだ信長自身は経験していないが、敵が宗派がらみだった場合、兵は自ら喜んで死地に赴くという。神仏のために死ぬことは、死後を約束されるということらしい。

 その気持ちや心構えは、南蛮人も同じようなものかもしれない。


 南蛮人が日本から輸出しているものは何か、と信長は話を変えた。

「銀ですな」

 即答だった。

 貿易に限らず、この時期日本は金銀の需要が拡大し、金山や銀山の開発が進んでいた。

 灰吹法という技術が金・銀の産出量を飛躍的に向上させたという。鉱石を一旦鉛に溶け込ませ、そこから金・銀を抽出する。

 中国もしくは朝鮮から伝わったこの技術は石見国の石見銀山(現島根県)で導入され、やがて全国に広まっていった。

 特に銀は西日本から北陸、東北に銀山が点在し、後の十七世紀頃には全世界の三分の一を産出したと推定されている。

「うちも但馬にある生野銀山には手を出してるんですが、まだまだ取れるように思えますな」

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