12

「上手くいったのね」

 ステラが目覚めたという連絡を受け入院舎にアーリアがやってきた。同行者にはアデレードの兄の姿も見える。ひざまずこうとするマリアたちを王女は手で制した。

「たしかに手術は成功しました。しかしこれで症状が改善するかどうかは、今後の経過を見てみなければわかりません」

「冷静ね。でも、私の目には随分良くなって見える。ほら」

 そう言ってアーリアは、自らの愛竜へ手をのばした。ステラが竜房の中を近づいてくる。首を伸ばして主の手のひらに鼻先をすりつける。アーリアが鼻面を掻いてやると、竜は心地よさそうに瞼を閉じた。長い尾が房の床をゆったりと掃く。柵越しではあるが、二日ぶりの主人との再会だ。竜の仕草には喜びが滲んで見えた。

 アーリアはしばしステラと触れ合った後、二人に向き直った。

「運ばれた時、この子は立つこともできなかった」

 彼女の視線がステラの患肢に向けられた。竜の右後肢は腿の付け根から足先まで包帯で巻かれ、白い丸太をぶら下げているように見えた。圧迫により患部の腫脹や循環低下を防ぐ包帯法だ。患肢への負重が少なくなり、痛みも軽減される。

「見事な腕前だったわ。感謝しますアデレード」

「身に余るお言葉です」アデレードが深く頭を下げる。

「それに助手のマリアも。他の職員たちも、もちろん。私の竜のためによくやってくれたわ。ありがとう。皆にそう伝えておいてね、セオドア」

「そうさせていただきます」

 最敬礼するマリアの横でセオドアが請け合った。

「それじゃあ私は行くわね」

 さっぱりと告げて、王女は護衛と共に入院舎を出ていく。付き従っていたアデレードの兄が、ふと足を止めてマリアたちの方をふり返った。踏み出すかどうかを一瞬悩んだ様子で、結局、出口近くの中途半端な場所で立ち止まったまま言う。

「アディ、よくやったな」

「ありがとうございます、兄様」

 答えるアデレードの表情は硬く、セオドアや他の職員たちが出ていった後も兄の出て行った方向を見つめ続けていた。

「思ったのとは違ったな」

 アデレードはふり返ったが、やり場に困ったように視線を泳がせると、結局ステラの方を向いた。マリアも隣に並んでステラを眺める。

「兄様のことだな」

「不仲なのかと思っていた。あれは、いや、良いわけでもないんだろうが」

 ああ、とアデレードは苦笑した。リリカは何か勘違いしているようだったが、マリアから見て、アデレードの兄に妹に対する悪感情はないように見えた。

「私だって愚かじゃない。兄様が私を大切に思っていることくらいわかるさ。悪いのは私なんだ。勝手に兄様に引け目を感じているのはね。でも、あんなふうにされたら、憎むことだってできないだろう……」

 重い息を吐き出してアデレードは言った。房の柵にもたれ掛かかると、柵の上で腕に顔を埋めた。くぐもった声が鉄柵に反響して聞こえてきた。

「君の言う通り、私は竜が好きだよ。あの穏やかさ、何者にも屈しない気高さが。強さが、羨ましい。私もかくありたいと思ってきた。けれど、時々、ささやく声がする。その思いは本物なのかと」

 アデレードの声はかすかな震えを伴っていた。

「私は結局、兄と比べられることが恐くて、比べられない場所に逃げてきただけなんだ。その場所がたまさか竜医学だった。ただの偶然によって選んだ道を、偽物の思いを、私は後生大事に抱えてきたんだ。そうだろう? 詩人は詩が好きなはずなんだから……」

 アデレードの言葉は掠れるようにして途切れた。

 マリアは房の中のステラを見つめた。敷き藁の上で丸くなる姿は穏やかで、あれほどの大手術の後と思えなかった。アーリアは手術の出来映えを賞賛していたが、実際にステラの様子はマリアたち竜医から見ても、いや、竜医にとってこそ劇的な結果だった。

 それは単に、手術直後に歩くことができた、という意味ではない。一般的な前十字靱帯断裂症治療の入院期間は一日。脛骨骨折でも三日程度だ。竜の傷病に対する耐性と回復力は特に大型竜種では目を瞠るものがある。LSS法などの術後すぐにかれらが歩きはじめるのは、さほど珍しい光景ではなかった。

 けれど今回の脛骨高平部水平化骨切り術TPLOには、これまでのLSS法とはまったく異なる点がある。TPLOは大腿骨顆と脛骨が成す角度を変化させる。だが、前十字靱帯の機能を復元することは

 ステラの前十字靱帯は

 逆に言えば、それは竜の歩行に前十字靱帯の機能が必須ではない――脛骨高平部が水平であればよいことを示していた。マリアにはそれが、進化という現象に目的や指向性がないことの証左に思えた。竜は全能の何者かがと生み出した存在ではない。もしも生命が被造物ならば、造物主は初めから竜の脛骨高平部を水平化TPLするべきだった。

「私たちは進化によって生まれた。ならすべては偶然だ。初めから」

 アデレードが伏せていた顔を上げた。

「だったら……」

 ふり返った彼女が浮かべていたのはやはりあの表情だ。雲が太陽を隠した時に落ちる影。何度となく思い出したのと同じ翳りが、その目にはかかっていた。

 不意にわかった。それは諦念――あるいは、寂しさと呼ばれるものだ。

「すべてが偶然から生まれるなら、意味はあるのか。あらゆるものが賽の目で決まるなら、私の、私たちのこの思いに価値はあるのか。私たちはなにかをなすことができるのか?」

 進化は無目的で場当たり的な試行と、適応度の上昇により結果を報酬する原理に基づいたフィードバックループだ。ゆえに人類が手にするあらゆる叡知も技術も、それをもたらした意志すらも、偶発的に生み落とされたものにすぎない。

 アデレードは沈黙するマリアから視線を逸らす。

「すまない、くだらない話をした……」

「違う」

 アデレードがふたたびマリアを見た。そのまなざしに挑むように、マリアは言い切った。

「それは違う」

「なにを根拠に」

「ドミトリ・ベリャーエフは?」

「聞いたことはある。選抜育種による、家畜化プロセスの再現実験……でよかったか」

 マリアはいぶかしげにしながらも頷いた。

「ベリャーエフは、ヒトへの友好性に基づいて野生型の個体を選抜し続けた。それだけの操作で、数世代後の個体群には家畜化症候群Domestication Syndromeの兆候が見られるようになった」

 家畜化症候群は家畜化された動物に共通する一連の形態的、内分泌的、神経行動学的な形質のセットだ。竜においては体色の淡色化、繁殖期の延長と喪失、頭部形態の変化、攻撃性の低下、毒腺の退化といった表現型フェノタイプが挙げられる。

「動物だけじゃない。頭蓋骨の形状の経時変化から、私たちも自然選択を通じて自ら家畜化したことがわかっている。でも、これまで地球上に現れたヒト属は私たちだけじゃない。ネアンデルタール人は私たちより脳も身体も大きかった。死者を埋葬したし、装飾品を作って、文化的にも洗練されていた。なのに最後に生き残ったのは私たちだった」

「その理由が自己家畜化だと」

「そう。私たちは最も友好的なヒト属の末裔だ」

 動物の持つ他者のカテゴリは「見知っている仲間」と「見知らぬよそ者」だけだ。しかしサピエンスには自己家畜化のお陰で「見知らぬ仲間」というカテゴリが生じた。その新たなカテゴリこそが、大規模な集団による協調を可能にし、社会的ネットワークと技術の躍進を生み出した、すべての勝因なのだ。

「だから順序は逆なんだ。私たちは自己家畜化のお陰で見知らぬ他人だけでなく、自分たちとまったく異なる種とも協力できるようになり、それが動物たちに――竜に家畜化をもたらした。いつしかそれが私たちのほどけない絆になった」

 柵にもたれながら、マリアはステラを見つめた。

「でもその絆はさ、別にゲノムに書き込まれているわけじゃない。もちろん、友情や愛情をコードすることは誰にもできないから」

「だったらやはり、すべては偶然だろう。私が私の家に生まれたのも、君が竜と出会ったのも。私たちが共に竜に惹かれたのも。それは結局、私と同じ結論じゃないのか」

 ステラの脛骨高平部がなす24度の傾斜角TPAは、生命が、私たちが、神の手にならぬ賽の目の結果であることの動かしがたい証拠に違いなかった。

「絆はゲノムの上じゃなく、いまここにある」

「どういう……」

 二百万年前、その邂逅は偶然だった。そこに必然は何もなく、ましてや運命などではなかった。だが、だからこそ私たちは何度でも出会い直すのだ。

 何度でも絆を作り、それを運命と呼ぶのだ。

「メスを握って、新しい術式を考案して、私たちがかれらを思うたび、私たちは前より竜が好きな私たちになる。そうやって私たちはできていく。私たちは何かの結果じゃない。私たちは結論じゃない。私たちはプロセスなんだ、アデレード。偽物だろうと、不完全だろうと、その道のりこそが私たちなんだよ」

 ぶるる、と房の中でステラが鼻を鳴らし、二人は思わずそちらを見た。竜は身じろぎをしながら立ち上がると、二人に向かって歩いてきた。さし出された鼻面に向かって柵越しに同時に手をのばしたマリアとアデレードは、顔を見合わせて笑う。

「これでまたひとつ好きになったというわけか」

 そう言うアデレードの目には光があって、マリアはそれを好きだと思った。

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