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「ジェフ、
「白血球とリパーゼが高値で……あとはCRP(C反応性蛋白)もですね」
看護師に手渡された検査結果に目を走らせ、マリアは唸った。
「うあー、たっかいなあ。嘔吐に下痢……腹部の圧痛でしょ。コッカーだし、まあ
「わかりました。腹部だけで?」
「うん、胸はいい。よろしく」
手の代わりにカルテの束を振って、マリアは次の症例の受け取りに向かった。診療が立て込んでいる朝には、一旦症例を預かって、手が空き次第に詳しい検査に入ることも多い。専門の技師が常駐するレントゲン撮影などは、竜医が立ち会わないこともしばしばだった。
廊下を歩きながらマリアは先ほどの症例を思い返す。
特徴的な巻き角と、黒くて愛らしい目。しかし身体は頻回の嘔吐と下痢で目に見えて衰えていた。コッカー・スパニエル種は
マリアは当直明けのあくびを噛み殺し、ふたたびカルテに目を落とした。
ジェフ。コッカー・スパニエルの五歳、去勢雄。元々は脛骨骨端部の骨折治療で来院した竜だった。内科の扱いである膵炎疑いの患者を外科医のマリアが担当しているのもそのためだ。術後の入院時にも大人しく人懐こい性格で職員たちから可愛がられており、マリアにとっても思い入れが深い一頭だった。
それだけにため息が漏れる。
膵炎の治療法は確立されておらず、外科手術や薬物治療への反応性は低い。したがって基本的には安静と必要に応じた絶食、輸液といった対症療法で自然治癒を待つ他にない疾患だ。根治が難しく再発が多い病でもある。
臨床症状も血液検査の結果も重篤だった。正直なところ、予後には期待できなかった。
マリアは診察室に入った。重ねたカルテの端を机の上で揃えて気持ちを切り替える。
インターホンのスイッチを入れて飼い主を呼び出す。
「――5番診察室にお入りください」
「明日の手術もあの女の助手だと。カニンガム先生は随分気に入っていらっしゃるが、あの下品な発音で指示される身にもなってほしいものだ。
午前の診療を終えたマリアの耳に届いたのはそんな言葉だった。彼女のほうへ向かう足音がそれに続いた。マリアが食事をとっていたラウンジは廊下と壁やドアで隔てられておらず、不幸にも男の声はよく通った。
マリアはまさしく彼が罵るところの「平民」なのだった。
「技術はたしかだ」
女の声が優雅な発音で応じた。
「技術ねえ……昔から地べたや屠場で刃を振るうのは平民の仕事だもの。肉を切り刻むのはお得意というわけでしょう? 神聖な竜医をあのように、歩兵や肉屋の仕事といっしょにして欲しくないわ」
別の女の声が嗤う。これが嫌でわざわざ離れたラウンジまで来たというのに。
マリアは辟易しながら席を立とうとし、
「……っ」
角を曲がって現れた三人の男女と目が合う。
「昼食かい? 私はちょうど終わったところだ。よければここを使ってくれよ」
マリアは鞄を肩にかけると、テーブルを指し示した。
三人はばつの悪そうな顔を浮かべた。とりわけ真ん中の豪奢な金髪の女、アデレードは苦い表情になる。美人はそういう顔でも美人だな、とマリアは場違いなことを考えた。声から判断するに、彼女だけはマリアの陰口を口にしていなかったはずなのだが、それにしては妙な態度に思えた。あるいはそれゆえかもしれないが。
アデレードは取り澄まして言った。
「ありがとうマリア。二人とも、マリアの好意に甘えるとしよう」
「そうね」「ああ」
ぎこちなくテーブルにやってきた三人の横を抜ける。
「お先に」アデレードの視線を視界の端に感じながらその場を後にした。
マリアのような労働者階級と上流階級出身の竜医の確執は、今に始まったことではない。
ロンドン王立竜医療センターは、一次診療から二次診療までを請け負う竜専門の大型医療施設だ。クラウディウス帝の遙か以前から人々は竜と共に
竜医学は歴史的にまず大型竜種、とりわけ戦竜の医学として発達した。戦用竜種は飛竜も騎竜も兵科ごと多数存在するが、その黎明から、個々が一騎当千の戦力である竜を駆る技能は、それ自体がひとつの権力の拠り所として機能した。またそれは同時に、竜を養う自弁能力も証すものだった。だからこそ、中世諸国は竜の姿を御旗に掲げその威容の下に臣民を傅かせた。このように古くから、戦場の覇者たる戦竜は揺るがぬ貴族権力の象徴だった。銃火器の台頭と動物福祉思想の高まりによって第一線を譲った現代もそれは変わらず、竜医学をはじめとする竜にまつわる諸学は、いまだエスタブリッシュメントの業として見なされている。
マリアは自分のデスクに戻ると、今日の入院分のカルテをめくりはじめた。明日の分も用意してある。仕事はいくらでもあり、最初からゆっくり食事を楽しむつもりはなかった。
竜医への門戸は万人に開かれている。
幼いマリアは、王立竜医療協会が掲げるその文言を無邪気に信じた。
その無邪気さが間違いだったとは思わない。たとえほんのわずかな間隙だったとしても、扉はたしかに開かれていた。なによりあの頃の純粋な衝動は厳しい現実を目の当たりにしたいまでもマリアの内でかがやき続けている。
むしろ逆境の中だからこそ、竜医学にかける思いは強くなったとさえ言えた。
センターに二十人近く在籍する若手勤務医の中でも、マリアは最も実力のある一人として認められている。それは黙っていても竜医の地位が手に入る世襲貴族や、生家の支援を受けられた私立校出身者とは違い、たゆまぬ努力を続けてきたからだ。彼らとマリアとではスタート地点が異なる。同じ速さで競っていては、追いつくどころか、レースの参加権さえ得られない。だから死に物狂いで走ってきたのだ。
それでも直接に侮蔑の言葉を耳にするのは久々で、すこし堪えたのが本音だった。アデレードの苦々しい表情が浮かんできて、午後の診療と入院患者の世話が終わっても、一日、マリアの気分は晴れなかった。
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