第5章
――—9年前
「おい。あいつまだ学校来てるぜ」
行儀悪く机の上に座っている不良生徒が、登校してきた孝樹を見るなりそう仲間たちに呟くのが聞こえた。
孝樹が席に着くと、がたりと机が揺れる音がする。
奴らが笑い声を押し殺しているのが聞こえてきたのとほぼ同時に、後ろから思い切り蹴とばされた。
「お前まだいたの?もう来なくていいよ、いらないから」
今度はゲラゲラと大笑いする声が聞こえてきた。
蹴とばされた背中に手を伸ばすと、上履きの裏の汚れが付いている。
「おい、ちょっとついて来いよ」
不良たちはそう言うや否や、孝樹の腕を掴んで教室の外に引っ張り出した。
「どうせ学校来たんだったら、俺たちがまた遊んでやるよ」
孝樹はそのまま男子トイレの中に連れ込まれ、無理やり個室の中に閉じ込められた。
そして間もなく、上から勢いよく水が降りかかってきた。
トイレ掃除用に備え付けてあるホースで、不良たちが個室内へ水を撒いたのだ。
買ってもらったばかりの学生服が、みるみると濡れていく。
やめろやめろやめろやめろやめろ。
俺が何をしたって言うんだ。
俺は何もしてない。
俺は強いんだ。
いじめられるような人間じゃない。
孝樹の脳内に、これまで不良たちに言われた言葉が次々とフラッシュバックする。
『お前なんでいじめられてんのに学校来てんの?いじめに屈してない俺カッコイイとか思ってんの?』
『お前ってそんな人生で生きてて楽しい?はは、楽しいわけねえよな。お前みたいな陰キャは他の奴らと不幸自慢でもしあってろよ』
『あいつはさっさと不登校になったのにてめえはしぶとい野郎だな。きもちわりいよお前』
あいつ…。
あいつとは、入学後すぐに孝樹と同様不良にいじめられ、2週間ほどで不登校になってしまった弘樹のことだろう。
あいつは絵に描いたような、俗に言う“オタク”だった。
彼は美少女キャラのキーホルダーをスクールバッグにいくつもぶら下げていたことと、情報の授業で活き活きとパソコンに関する知識を披露し始めたことが生意気だと思われたことなどがきっかけで、不良たちからいじめを受けるようになったのだ。なんとも理不尽な理由だ。
孝樹が最後に弘樹と会話したのは、彼が不登校になる2日前の放課後のことだった。
「孝樹君は強いよね。僕とは違って泣いたり叫んだりしないから、不良たちが苛立って僕なんかよりももっとひどいいじめを受けてるのに。僕はもうそろそろ限界だから、この現実から逃げることにするよ。でも、君には負けないでほしいな。僕なんかよりよっぽど不幸なのに、君は全く逃げる気がない。今後何を言われても、その強さを誇りに思って頑張ってよ」
彼とはそれまでほとんど会話をしたことはなく、ただお互いいじめを受けているということを知っている程度だった。
そんな彼が自分のことをそんな風に見ていたなんて、孝樹は想像もしていなかった。
そして、彼の言葉は孝樹の中で徐々に肥大化していき、その後の人生を支える価値観の柱となっていったのだった。
・・・・・・・・・・
「俺は、いつからこんな…」
ぼっち大学生YouTuberが人生を真面目な方向にシフトしようとしていることを知り、それについて考えを巡らせているうちに、孝樹はずっと“自分が不幸であること”に極端に拘っていると気が付いたのだった。
よく考えればおかしな話だ。
自分は不幸な存在だとずっと嘆いてきて、それにより自分への自信を喪失してしまったはずなのに、一方で他者と自分のどちらが不幸かどうかいつも考えている。
まるで、自分が不幸な人間であることを誇りにでも思っているかのように。
孝樹は正直、自分のことがよく分からなくなっていた。
いや、はじめから自分のことなんて何もわかっていなかったのだろうか。
「もう、わかんねえよ…」
もはや自分一人ではどうにもならない問題を前に、孝樹はふいに以前参加した就活講座の内容を思い出した。
『自己分析とは、自分のこれまでの経験やそこから得たもの、そして培ってきた価値観を自分自身で理解するために大切なことです。しかし自己分析とは言っても、自分一人だけで済ませてしまってはいけませんよ。自分のことは自分が一番よく分かっているとお思いかもしれませんが、“自分が他者からどう思われているか”というのは他者にしか分かりません。ですから、自分はどんな人間なのかを自分の周りにいる人にも尋ねてみましょう。きっと参考になると思いますよ』
人間なんて結局は皆、寂しがりやな生き物だ。
どうしようもなくなった時、無性に他者の存在を求めるのだ。
それは就職活動においても、日常生活についても同じことなんだろう。
孝樹の頭には、既に一人の人物の顔が浮かんでいた。
健介。
彼なら、ありのままの自分を見つけてくれて、そして受け入れてくれるのではないかと思った。
幸い彼の連絡先も知っているし、家が近くだというのも以前聞いたので、すぐに会うことができる。
孝樹は初めて、健介に自分から連絡を入れてみた。
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