第3章

煙草を吸い始めてもうすぐ2年が経とうとしているが、喫煙所に入るのは初めてだった。


ずっと自室のPCモニター前か台所の換気扇付近で喫煙を嗜んできた孝樹は、喫煙者なら誰もが足を踏み入れたことがあるであろうこの空間に対し、謎の緊張感を覚えていた。



「いやー、まじ3月適当に過ごしすぎたわ。就活解禁って言っても何から始めたらいいかよくわかんなくてさ。まだ面接まで進んだことないし今日行って良かったわ」



今日の就活講座で偶然隣の席に座って来たこの品川健介という男は、孝樹がよく利用するコンビニでアルバイトをしている、あの快活な男性店員だった。


健介のほうも、よく昼頃に来る客として孝樹のことを覚えていたらしく、講座が終わった後喫煙所に誘われたのだった。



「孝樹は何社ぐらい受けてる?俺まだ20社も出してないんだけど、もう13社祈られてるわ。」


「えっと…俺も同じぐらいかな。まあ、あれだ…みんな苦労してるよね」



健介は、今日知り合ったばかりの孝樹をあっさり下の名前で呼び捨てにし、遠慮なしのため口で会話を滑らかに進行させる。


大学に進学してから人付き合いの幅が狭くなっていた孝樹は、ハイテンポで流れていく会話についていくのが必死だった。



「なんかサークルの友達は50社出したとか自慢してきやがってさ。多けりゃいいってもんじゃねえだろってな」


「うん…まあそりゃ、ね」


「あれ、ライター付かなくなっちゃった。孝樹、借りていい?」


「うん、どうぞ」



これがタバコミュニケーションってやつか。


孝樹は健介にライターを差し出しながら、社会人になるとこういうところから交友関係が生まれやすいと誰かが言っていたのを思い出した。


健介は普段からこうやっていろんな人と仲良くしているのだろうか。



「そういやさ、孝樹はなんでタバコ吸い始めたの?なんかあれじゃん、雰囲気真面目っぽいから煙草吸わなさそうだし」


「え、ああ、父親の影響だよ。すっごいヘビースモーカーでさ、昔から見慣れてたから」



咄嗟に嘘をついた。


昔好きだったバンドマンに憧れて、なんて恥ずかしくて言えない。


自分みたいなやつがアーティストに憧れてるなんて、鼻で笑われてしまいそうだ。



「へえ、やっぱ親父の影響って受けちゃうもんなんだな。ちなみにうちの家族は誰も吸ってなくて、喫煙者は俺だけ。あ、俺が煙草を吸い始めたきっかけ、聞きたい?」



どうせサークルの先輩に勧められたとかだろ、なんて思いながらも、一応うんと頷いておいた。



「ちょっと恥ずかしいんだけどさ、好きなバンドのボーカリストがライブで煙草吸いながら歌ってて、それ見てかっこいいなって思っちゃったんだよね。この話、内緒な」



孝樹は下腹部がきゅっと締まるような感覚に陥った。


そしてひとつの事実を自身の中で確信したのだった。


こいつは幸福なんだろうな。


自分のことを肯定してくれる対等な存在に囲まれて、それによって自分に自信をつけながら生きてきたんだろうな。


そんな健介の人生が、彼の一挙一動から見て取れる。


初対面である自分に対しても分け隔てなく接してくれる。そんな余裕のある優しさが、今の孝樹には逆に辛かった。


孝樹は心の奥底で、どうせこいつも何の悩みもなく生きてきた馬鹿なんだ、と見下してしまっていたのだ。



「あ、俺16時からバイトだったわ。じゃ、またな。あ、ライターありがと!」



孝樹がいろいろと考えている間に健介はさっさと喫煙所を出てしまった。


力なく彼に手を振った後、2本ほど吸って孝樹は喫煙所を後にした。




・・・・・・・・・・




あ、今何時だろう。


スマホ画面の左上を確認すると、時刻は23時50分を指していた。


帰宅した時はたしか17時頃だった気がするが、随分長い時間を無為に過ごしていたようだ。


このような時間の使い方は珍しいことではない。


やらなきゃいけないことがあるのは分かっていても、体が動いてくれないのだ。


とくに何か気を病む出来事があって悩んでいる日は、それが余計にひどくなる。


前にネットで見た気がするけど、これって鬱病の症状だったりするのかな?


画面の中では相変わらず、ぼっち大学生YouTuberが酒を片手に何か話している。



『昼頃にエントリーシートの結果がきてたんだけどさ、また落ちてたわ。あんな紙切れ数枚で俺の何がわかんだよ。あなたの強みを400文字以内で書けって?俺が22年間で積み上げたものをたったの400字で表せってのか?馬鹿じゃねえのまじで』



どこかで聞いたことがあるような文句を垂れながら、彼は缶ビールをあおる。


こんな奴でも就活はやってるんだな。孝樹は少し意外に感じた。


彼はいつも昼まで寝て授業飛んじゃったとか、留年の危機だとか、そんなことばかりほざいていた。


やっぱりこいつなんかより俺のほうが不幸だ。


俺は結局今日も講座に行っただけで、帰宅後はたいして就活のことも考えずにだらだらと過ごしてしまった。


こんな時でも頑張れない俺は不幸だ。


健介が羨ましい。


あいつはコミュ力も高いし行動力もありそうだから、就活の遅れなんてあっという間に取り戻すのだろう。


虚しくなった孝樹は、いつの間にか最後の1本になっていた煙草を吸った。

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