still girl

巴瀬菫

第1話

 ちょっと前まであれやこれやと体をべたつかせ甘い言葉を囁きあっていた者同士が、全くの赤の他人になる。

家はあそこのスーパーの裏で嫌いな食べ物はブロッコリー、コーヒーはブラック派、それなのにお酒は飲めなくてちょっと可愛い、服は黒ばっかりだけど好きな色は白で、シャツとか着がちなのに洗濯物干す時肩がいつもずれている。ずれてるよって言ってるのに、いつになったら干し方直すんだよってもう100回は思ったなあ。家族とご飯も食べた、お父さんの名前が剛でお母さん真由美お姉さんは結構美人、イオンにいたら間違いなく私は気づく。そしてそっとマネキン裏に隠れて漫画のように逃げるだろう。サブスクのファミリープランに入ってて私もちゃっかりその中に入れてもらい恩恵を受けていた。そんなことまで覚えている自分が気色悪いとは思いつつ、記憶力には定評があったので一生忘れてやるもんかと心に決めていた。どこか街中ですれ違った時に知らんふりをするには、重すぎるくらいの情報を持っている。スパイ映画なら私は敵に密告して美人の姉に刺されていたかもしれない。

元カレ元カノジョなんて、あってないような名称だと思う。元他人で元恋人で現他人。ベクトルで表したらかなり面白いから、ラブベクトルとでも名付けてどこかの胡散臭い恋愛の教科書に載せてほしい。他人と恋人の境目って何なのだろう、一文字しか違わないのに。ていうか夫婦が元他人なのすごい。もともと他人同士を紙切れ一枚でがっちり縛り付ける契約が結婚、他人を家族なんてハートフルなものにしてしまう魔法。まる2日くらい、割と真剣に考えた。哲学だ、これは哲学かもしれない。

「夏子ってそういう女なんだよなあ」

実家暮らしの私・会田夏子は、時折こうして同期の安部遥の家へ転がり込んでいる。実家から徒歩5分にある遥のアパート、通称アベノハルカスは、電気ガス水道はきっちり通っているがビフォーアフターさながらのベランダに洗濯機があるボロアパートだ。何でここにしたのかと尋ねたら、いい男の霊がいたと霊感のある彼女は意気揚々と答えた。霊は霊だし、いい男でも触れないし付き合えないし、ていうか普通に気持ち悪いし、私は絶対何か別の理由があるとにらんでいる。

「そういう女」

「もっと別れたくなーいとか、なんでーとか、ごねればいいのにはいそうですかってすぐ言うの」

つい2日前、2年と12日付き合っていた人とお別れした。2日前の2日前に今話題の恋愛ものの映画を一人で見た。予告編の時点から長く付き合っていたカップルが最終的に別れを選択するような匂いがぷんぷんしていたので、恋人と見に行くなんて馬鹿な踏み絵はしなかった。しなかったというのに2日後に別れた。

いやまあ元々ひび割れた皿だった。ひび割れた皿に恋愛映画で私のメンタルが弱ったことでさらにひびが入り、2人の不安定な足場に彼の職場の可愛い後輩が乗ったことで高い棚から急降下で落ちてガッシャーン。可愛くてバニラアイスが溶けたみたいな声の後輩はちらと見たことがあるが、女として一生敵にしたくないタイプだった。普通に敵になる前に負けたので、コロッセオの舞台にすら立てなかった剣闘士である。瀕死の剣闘士が別れたくないだなんだってごねるなんて、あまりにも惨めで我ながら切ない。

「女の旬2年も奪っといてよく別れられるよね、ありえない、男って本当にバカだよね、あんなガールズバーの店員みたいな女将来さっぱり役に立たないよ。夏子なんか将来旅館の女将みたいになれる予感しかしないよ、この落ち着きよう。ああ悔しい」

「褒めてんの?」

「褒めとるわ」

落ち着いてるんじゃない、あんなに好きだった時間や彼の姿を記憶喪失かのように忘れるほど、彼に呆れたのだと思う。なんで2年間も一緒にいたのだろう、私が好きなブロッコリーを嫌いだという男になぜ2年も。24年間生きてきて自分の事を嫌いだと思ったことは一度もないが、今回ばかりはちょっと失望した。私の中にひっそりと住んでいる自分をほめちぎってくれるポジティブアメリカ人も、今日は挨拶すらもなくひねくれてイギリスの国旗のシャツを着ていた。

「今日は何でも聞くからたんとお食べ、ウーバーイーツもウーパールーパーも何でもとろう」

私は遥のこういうところがとても好きだ、意味の分からないことばっかり言うしアベノハルカスはぼろいけど、なんかいつも一緒にいたくなってしまう。

「遥、私と結婚しようね」

「んーーーー悪くない、悪くないけど」

遥は飲んでいた鮮やかなチューハイの缶を、テーブルに置いて立ち上がった。あんなに酒に弱くてサークルの飲み会ですぐつぶれていた遥は、いつの間にか平気で私より飲むようになっていた。もしかしてわざとだったのかもしれないと思うほどに。大学の時の安部専用介抱係は、私と彼女の数多の元カレたちで代替わりを繰り返していたのが懐かしい。お酒を飲んで染まった彼女のピンク色の頬と綺麗な目は、先輩から後輩まで男という男を虜にしていたことだろう。

これを見よ、と遥が私に白い封筒を差し出した。こういうところがあるんだよな、遥って。中をちらと見て思った。

「安部遥、牧野遥になります」

私が行ったアベノハルカスは、この日が最後だった。遥がアベノハルカスを翌週に退去してマキノハルカスになる頃には、アベノハルカスの改築が決まった。


 さすが私を結婚を申し込むだけのことはあって、ウェディングドレス姿の遥はそれはもう綺麗で綺麗で、まさか泣くとは思わなかった。バイトした帰りに遥が派手に転んで自転車が信じられないほど吹っ飛んでいったことから、ファミレスで2人でトイレに立って戻ってきたら知らないおじさんが私たちの飲み物に口をつけていたことまで思い出した。そしたらなんか涙が出た、変なの。

「げっ、夏子泣いてる。そんなキャラじゃないじゃん」

「うるさいなあ…」

結婚式が終わった後の仲間内の打ち上げで、遥はさっぱりとした顔で私の隣に腰かけた。

本当に、まったく、私が別れた報告をした日に結婚報告をされた私の気持ちがお前にわかるんか。と文句の一つでも言いたかったけれど、幸せそうな遥と純白を前にしてそんな汚い言葉を吐く気にはなれない。安部さん結婚するんだって、すぐ離婚しそう、結婚しても恋愛してそうだよね。夢と希望とあこがれが詰まった結婚式という場でよくもそんなことがいえたな、と私が魔法使いだったら口を広げてリボン結びにして会場の飾りの一部にしてしまいたい。本当にそれが職場の仲間にかける言葉か。

「でもね夏子、今日の夏子めっちゃ綺麗。すぐ男が寄ってきそう」

「酔ってんなあ」

「2年男と付き合ってた時の3倍は綺麗、なんでかなあ。来週には良い人と出会ってるよ、アンタ」

2年前に2人で行った占いで、目を吊り上げた荒れ地の魔女みたいな強烈なおばさんが私に言ったセリフまんまじゃないか。でも確かにあの時は、その1週間後に2年男と出会っていた。

「もっと100倍とかいってくれればいいのに!」

「3倍くらいが妥当、リアリティある」

「なるほど、そういうことなら喜んじゃおうかな」

昔からこういうリズミカルで楽しくて、私が望んでいた返しをくれる人は遥だけだった。遥が男だったらホントに絶対結婚したかった。私にとってそういういわゆる相性がいいと思える人は遥だけだったけど、遥にとっては牧野もそういう相手だったのかな。と、ふと向こうのテーブルで見事に絡み酒されている牧野凌大に眼をやった。

グラスが空になるたびになみなみに注がれる酒を飲む、飲む、口だけつけてそのままにしておけばいいのに律儀に飲む。今の5分くらいで床に誰かがこぼした酒をティッシュで拭き、天井の明かりがちかちかしているのを店員に教え、隣に座る後輩と本部長に酒を進められている。上下左右360度に気を配っている。常人に出来ることではない、さすが霊から生きている人間までが恋愛対象の遥が選んだ男。

「牧野さん、疲れないのかな」

思ったことがそのまま口に出てしまっていて、遥がうんと相槌を打った。

「私もはじめどんだけ神経すり減らして生きてんだこの人って思ってたんだけど。あれがデフォルトだから苦しくないんだって。気を遣ってるつもりもないし疲れるようなことしてる自覚もないから、疲れてないよ」

生き仏かよ、と口には出さなかった。遥は嬉しそうだった。遥の事だから凌大とも長続きしないかもしれない、そう思っていたけどどうも違っていたらしい。私、すっごく好きなんだよね。そんなことを恋人にいった遥を初めて見た。

「強いお酒、ください」

店員さんがにこりともせず注文を聞く人で助かった。今店員さんにまで幸せな顔をされたら、涙が出てきてしまいそうだった。

遥には何でも話していたしお互いの裸も見たことがあるけれど、一つだけ言えなかったことがあるとするなら、あんたの旦那のファーストキスは私だよという地獄を映した言葉だけである。


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