泉佐野駅の南口に、小さな喫茶店が在る。


 発見できたのは本当に偶然では在るが、ウェイトレスとして幸江が在籍している。


「アイスコーヒーと、ハムサンドですね?」


 通い詰めて二週間が経過しているが、幸四郎は声を掛けれずにいる。元より声を掛ける心算(つもり)もないのだが、愁(うれ)いの帯びた優しい眼差しで幸江が問い掛ける。


 毎度、同じ注文だったので、流石に憶えられてしまっている。不愛想に頷くと、幸四郎は定位置に腰掛けた。奥から二番目の窓際のテーブル席。此処からが一番、幸江の姿が良く見えるのだ。煙草に火を付けながら、さりげなく視線を幸江に向ける自分が、どうにも滑稽に思えた。ほんの三十分の間だが、死神としての自分が此の世から消失する瞬間で在る。どうにもならない感情だけが、優しく幸四郎の心を撫でて往く。肺の奥深くまで煙りを送り込みながら、幸江の動きを目で追い続けていた。どうしようもない事だが、幸江が気に為って仕方が無い。認めたくはないが、幸江の傍に居たかった。


 だけど其れは同時に、死神の終わりを意味している。


 山崎の下卑た含み笑いが、幸四郎の心を嘲笑っている様な気がして悲しい気持ちに為った。幸江を連れて、何処かへ消えてしまえば楽に為れるだろうか。奴等は地の果てまで、幸四郎を追い掛けて来るだろう。何処までも猟犬の様に駆け付けてきて、幸四郎の息の根を止めるまでは、決して追跡を止める事は無い。


 そんな事は、自明の理だ。回避は決して不可能だ。


 だからこそ、こんなにも辛いのだ。


 ――違うだろ?


 もう一人の感情が、幸四郎の心に問い掛ける。


 自分の実力ならば、生き延びる術が残っている。可能性としては限りなく低いが、逃げ遂(おお)せるだけの算段(プラン)が残っている。只、其れをしないのは、恐れているだけだ。


 ――何を、恐れる事が在る?


 答えは既に決まっている筈なのに、気付かない振りをしている自分が居る。幸江が好きだった。其の感情は紛れもない物だ。為らば、全力で守護(まも)るだけの事ではないのか……が、もう一人の自分が心の中で、ブレーキを掛けている。誰も傷付かない道が在るのならば、幸江を諦めるべきではないのだろうか……そう思えば思う程、気持ちにブレーキが掛かっている。だけど、本当は諦めたくない。だからこそ、未練がましく此の場所から、見ている事しか出来ないでいるのだ。死神が聞いて呆れる。自分は情けない男だ。惚れた女も碌に守護(まも)れないのだ。


「いらっしゃいませ~!」


 幸江の声に、ふと我に返ると目の前には一輝の姿が在った。


「何や小僧。又、来たんか?」


 向かいの椅子に腰掛けると、一輝は煙草に火を付けた。


 調度、良いタイミングで来てくれた気がする。此の儘、一人で幸江を眺めていたら、想いが暴発してしまって、突発的な行動に走っていたかもしれない。


「俺も同じ物、頂戴!」


「はい、畏まりました。弟さんですか?」


 幸四郎の注文を運んできた幸江が、問い掛けてきた。不本意ながら、舎弟にしてやっても良いかな……そう、思い始めている。


「兄貴の彼女さんっすか?」


 唐突な言葉に、幸江よりも幸四郎が戸惑っていた。表情には出さなかったが、幸四郎の心拍は跳ね上がっている。


「だと、良いんだけどねぇ~」


 其れだけ言って、幸江は退散して往く。


「余計な事、言うな。失礼やろが!」


 幸江の言葉に、喜びの色が隠せないでいた。思わず、にやけそうに為るのを誤魔化す為に、言葉を吐き捨てていた。


「兄貴、さっさと口説いたら良いじゃないですかぁ~。めっちゃ、脈ありな感じやないですか?」


「喧(やかま)しいねん。其れに、誰が兄貴や。未だ、舎弟にしてへんやろッ!」


 心が乱れて往く。どうしようもなく、掻き乱れて往く。


 同時に、人間らしい感情が心を通わせて往く。


 死神としての自分が、薄れて往く。


「そんな事、言うても惚れてるんやないですか?」


 何にも悪びれた様子も見せずに、一輝が笑い掛ける。本当に初めて会った時とは、別人と化している。


 思った事を堂々と口に出す。そんな一輝が少し、羨ましかった。


「黙っとけ。食ったら、喧嘩すんねやろ?」


「はい。其の心算(つもり)で来ました。奇襲は性に合いません。だから、俺とタイマン張って下さい!」


 本当に此の少年の様に、真っ直ぐに己に正直に為れれば、楽に為れるのだろうか。


 幸四郎の迷いは、何処までも続く迷路の様に広がっていた。

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