第一章【死神の狂騒曲(ラプソディー)】
1
其の女に触れると、死が約束されると謂う噂だった。
聞いた限りでも十人以上もの人間が、噂通りに死んでいる。関わった物は、速くて一週間。長くても一年以内には、必ず死ぬ。まるで、死神に魅入られたかの様に、其の女は死に愛されている。尤も其の信憑性を確認する術を、自分には持ち合わせていない。解るのは名前と顔だけだ。
西崎雪江(いりさきゆきえ)。其れが、其の女の名だ。
長く艶やかな黒髪は、芳醇な香りと共に男を秘めやかに魅了する。潤いを孕んだ唇は、甘く優美な魅惑の果実の様だった。華奢では在るが、肉付きの良い柔らかな肢体(ボディライン)が男の性(さが)を刺激する。ゆっくりと淑やかに只、此方を見ている。とても悲しそうな瞳(め)をしている。目元の泣き黒子(ほくろ)が印象的で在った。不意に抱き締めてやりたいと謂う衝動に駆られて、自分の愚かさが酷く滑稽に思えた。
初夏の風と共に、淡い感情が心を撫でていた。気が付けば、彼女に見惚れている自分がいる。秘めやかに押し寄せる衝動が、波の様に寄せては理性を揺らしている。身体を纏う汗は、太陽の暑さの所為だけでは無いのだろう。
上喜馬幸四郎(うえきばこうしろう)は仕事も忘れて、立ち惚けていた。只々、雪江の瞳に吸い込まれている。
――木偶の坊。
今の幸四郎を謂い現わすとすれば、そんな言葉がしっくりと来るだろう。百八十二センチの高い背に、鍛え上げられた肉体。強面の顔立ちには、大きな切り傷。他を威圧する様な、目付きの悪い三白眼。何よりも全身から放つ雰囲気(オーラ)が、子供でも解る程に柄が悪い。街中を歩けば十中八九、人に避けられる事だろう。そんな武闘派のヤクザの様な男が、滑稽にも思春期の中学生が抱く初恋にも似た甘酸っぱい様な、爽やかな感情に心が彩られているのだ。
幸四郎が追い掛けていた山寺と謂う名の男は、既に遥か前方に姿を消している。今から追い掛けた処で到底、追い付く事は不可能だ。所詮は、ヤクザ崩れの半グレだ。行き着く先は、幾つかのパターンに分類が出来る。明日の夕方までに、依頼主(クライアント)に突き出せば其れで済む話だ。生きてさえいれば、どんな状態でも構わないと謂われている。此の上無く、楽な仕事だ。其れよりも今は、雪江の事を識りたかった。元々、名前と顔を知ったのも、仕事絡みからだ。
ヤクザの愛人で、豪(えら)く美人で気立ての良い女がいる。そんな噂を聞いたのが、事の顛末だ。何処何処の幹部の愛人で、世話役の人間が何人も死んでいる。終いには幹部の男が死んだ。そんな世間話にも為らない様なお粗末な話しが、始まりだった。最初は幸四郎も、気に留めてはいなかった。処が行く先々で、雪江の噂を耳にする様に為った。其れも全てが違う男で、違う話だ。此れは、流石に妙だ。そう思い始めた頃に、幸四郎の同級生でも在るヤクザの番頭が声を掛けて来た。
番頭とは、ヤクザが素人を使う際に附ける取締役みたいな物だ。素人を使ったシノギには、大抵は番頭が附く。
――良い女やろ?
田村と謂う名の番頭が、一枚の写真を差し出して来た。雪江の写真で在る。噂の真相までは解らないが、渦中の中心は写真の女で間違い無い。ドヤ顔で語る田村の話しは、他の噂話しと同様にあやふやな内容で在った。だが写真まで見せられては、信じない訳には往かない。田村に頼み込んで、雪江の写真を焼き回して貰った。何度も繰り返し写真を見ていた為、目の前に居る雪江を見間違える事も無い。
街を歩く度に、何度も繰り返し探していた。生身の雪江に逢えば、噂の真相が理解(わか)る。最初は、そんな好奇心だ。
だけど今は、そんな好奇心なんて、どうでも良かった。噂以上に、雪江に魅了されていたからだ。出逢って二秒で一目惚れをした。そんな、ドラマの様な事は、幸四郎に取っては初めてで在った。そもそも、そんな中高生の様な初心(うぶ)な感情、柄に合わない。そんな自分を他所に、雪江は幸四郎から視線を外していた。
永遠にも近い様な数秒間を、二人は慥(たしか)かに見詰め合っていた。錯覚や幸四郎の自惚れでは無い。
上手く声も掛けられずに、幸四郎は雪江の姿を逃してしまっていた。
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