12

「一輝さんっ……」


 涙を浮かべる雫が、駆け寄って来た。


 五度目の涙。又、泣かせてしまった。後頭部の傷よりも、撃ち衝けられた頬の傷よりも、悲鳴を上げる全身よりも、心の方が遥かに痛かった。雫を哀しませてばかりで、泣かせてしまってばかりで、本当に俺は最低だった。けれど、どんな事が在っても、雫だけは護り通してみせる。


「一輝さん……?」


 ふらついた拍子に、躓いて倒れてしまった。駆け寄る雫の顔は、不安と焦燥の色に染まってしまっていた。心が痛くて仕方が無い。雫が愛おしくて、堪らない。雫を護りたい。雫の笑顔が見たかった。どんな事をしてでも、雫の笑顔を護りたかった。


「そんな顔したら、アカン。どんな時でも、俺の前では……笑ってて、欲しいねん」


 本当に心から、そう願っていた。雫の哀しむ顔なんて、一瞬たりとも見たくはない。心を悔しさが掻き毟り、どうしようもない怒りに駆られてしまう。雫を幸せにしてやりたかった。心から、笑わせてやりたかった。


「頼むから……哀しまんといて欲しいねん。雫が辛いと……俺まで、ホンマに辛いねん。雫の笑顔を、護りたい。いつまでも、笑顔でいてほしいねん」


 ゆっくりと、雫の頬に手を当てる。温かな涙の感触が、伝わってきて切なさが込み上げた。不甲斐ない自分が、赦せなかった。


「解りました……。一輝さんが、望むなら……笑ってます……」


 どうしようもなく切ない表情(かお)で微笑む雫が、堪え切れない程に愛おしかった。得も言われぬ程の感情が、心を掻き毟って往く。怒りなのか哀しみなのか、喜びなのか切なさなのか、其れすらも解らぬ程の強い此の感情は何なのだろう。


 ――考える時すらも、残されてはいなかった。乱暴に扉が開け放たれていた。両腕を力無く……だらり、と垂らした富良野が此方を見ていた。息は荒れて、目が血走っていた。『不死身のフランケン』は、健在だと謂う訳だ。


「……一輝くぅ~んッ!!」


 地獄の底から聴こえて来る様な程、不快な岡崎の声が耳に纏わり附いてきた。《不死身》と《死にたがり》は、紙一重だ。気合いを振り絞って、立ち上がる。


「無理しちゃ、駄目だよ……一輝さんっ!!」


 引き留め様とする雫の手を払って、悲鳴を上げて泣き叫ぶ膝に鞭を打った。全速力で掛けると富良野に、全体重を乗せた飛び蹴りを放った。


 ――どうして此処まで執拗に、襲って来るのだろう。最初に在った疑問は其処だった。撃ち衝ける衝撃に耐え切れずに、富良野は後方に倒れていた。此れ以上、起き上がって来られたら堪った物じゃない。頼むから、眠っていて貰いたかった。追撃を入れたい処(ところ)だが、既に岡崎が迎撃態勢を執っていた。異様にぎらついた目。前傾に構えた姿勢。其の手には、スタン警棒は無かった。どうやら、本気に成った様だ。


 高校の時に見(まみ)えた獣の様な威圧感が、ジリジリと伝わって来た。前進しようとした時、足元を何かに絡め取られた。富良野だった。右腕の靭帯が損傷している筈なのに、物凄い力で在った。突進しながら、岡崎が跳躍する様に縦回転する。回転蹴りだ。頭上に向けて、十字にブロックする。器用に着地すると、岡崎は左手で手刀を放って来た。右に薙ぐ様にして、左腕部を撫でる。


 まるで刃物で斬られた様に、熱い衝撃が駆け抜ける。皮膚が、裂けている。続け様に右腕で貫き手を放ってきた。四本の指が喉元を襲う。


「一輝さんっ!!」


 雫の悲鳴が鼓膜を震わせる。


 ――鈍い衝撃を受けて、呼吸が出来なかった。


 岡崎の動きに、違和感を感じた。此の動きは空手等の徒手空拳の動きではない。過去に対峙した時は確かに岡崎は、空手を習得していた筈だ。四本貫き手――通称、地獄突きはどちらかと謂えば、プロレスの動きだ。追い打ちを掛ける様に、ラリアットが飛んで来る。衝撃と共に倒れる俺に、富良野が覆い被さる。


 不味い。両腕を負傷しているとは謂え、富良野はレスリングの経験者だ。非常に不味い。


「姫咲雫やな?」


 冷酷な声を放ち、雫に歩み寄る岡崎。全身に伸し掛かる重圧と重量。富良野は器用に右腕と両足で組み付いて来る。今は同じ土俵で遊んでやる暇は無い。富良野の股間に手を掛けると、力一杯に握り込んだ。潰して遣る心算で歯を食い縛りながら、全力で握り込む。ぐにゃり……とした感触と共に、富良野から力が抜けて往く。見ると泡を吹いて失神していた。


「雫に、近付くなッ!!」


 這う様にして、懸命に距離を詰める。


「雫に、何の用や? 近づくな!!」


「何って、一輝くん……解らんの?」


 鳩尾に鈍い衝撃を受ける。肚の奥が熱い。肺の空気が全て漏れ出てしまったかの様に、息が出来ない。頭上から、踵が落ちて来た。開いた後頭部の傷に、じんわりと熱が広がって往く。


「此の女が何してたんか、知らんと付き合ってる訳とちゃうんやろ?」


 乱暴に雫の髪を掴み上げて、引き寄せる岡崎。悲鳴が鼓膜を震わせた。


「何しとるんな、ごるぁッ……殺すぞッ!!」


 腹の底から込み上げて来る怒りが、焦りと共に全身を焼き尽くして往く。後頭部を踏み躙る踵が、力を増していたが、怒りの方が勝っていたのか痛みを感じなかった。気付くと岡崎の足首を掴んでいた。見下す岡崎の表情(かお)は、狂喜に染まっていた。胸ポケットを弄(まさぐ)ると、バタフライナイフを取り出した。


「昔の一輝くんなら、どんな状況からでも……『殺す』って謂うたら、其の相手は沈めてたやろうなぁ。今の一輝くんは、腑抜(ふぬ)けとる。相手にしても、おもろないなぁ……」


 嗤っているのに、目が嗤っていない。向けられた視線は恐ろしく冷たくて、温度が全く感じられなかった。頬を撫でる刃先。


「此の女はな……雇い主に、届けらんとアカンねん。解るやろ?」


 ズブズブと刃先が頬に喰い込んで往く。金属の感触が、奥歯に触れる。激痛が迸っていたが、微動だに出来ずに居た。どうしてか解らないが、動けなかった。身体に全く力が入らない。今すぐにでも、岡崎の糞っ垂れな面(つら)に拳を叩き込んでしまいたかったのに、身体が謂う事を利かないのだ。


「安心して、良いで。雇い主は、一輝くんの兄ちゃんやない。……そんな事よりも、痛ないの?」


 乱暴にナイフを引き抜くと、つまらなさそうにナイフを投げ捨てた。痛みなど、気にしている暇は無い。と謂う依りも、段々と麻痺していった。


「一輝くん、虐めたろうと思ったのに……そんな反応したら、感じらんやないかッ!!」


 顔面に衝撃が走る。靴底の感触が伝わるが、痛みを感じない。身体が全く、動かなかった。雫を乱暴に叩き衝ける岡崎。悲鳴と共に、倒れる雫。怒りだけが、胸中を激しく駆け巡っている。けれど、身体を動かす事が出来ない。


「殺す謂うたやろがッ!!」


 起き上がろうとするが、眩暈がする。足に力が入らない。手足の痺れを感じた。呼吸は荒れて、息苦しい。何故だか解らなかったが、全身が痙攣していた。どうして急に、こんな事に為ったのだ。今まで、どんなダメージを受けても、こんな症状は診られなかった。


「毒の味は、どうや?」


 岡崎は屈(かが)み込んで、顔を近付けてきた。顔に掛かる生温い息が、不快だった。目の前に居るのに何も出来ないでいた。


「紫陽花の毒を、ナイフに塗っといたんや。量は少ないけど……下手したら、死ぬやろうなぁ」


 下卑た笑みを浮かべる岡崎に、吐き気がする。雫は力無く動かないでいた。静かに只、啜り泣いている。無力な自分に、どうしようもなく腹が立った。


「今から、一輝くんが嫌がる事をしたる。安心して良いで。此の女には、傷は付けらん。此れは只の……嫌がらせやからな!!」


 そう謂いながら、雫のシャツを引き裂いた。声一つ上げない雫。何処からか、獣の様な叫び声が聴こえてきた。其れが自分の声だと気付いた時には、岡崎に殴り掛かっていた。二度、三度と打ち付けた時点で、身体の感覚が無くなっていた。視界が惚(ぼや)けている。何時の間にか、地に伏していた。


「びっくりするわぁ……一輝くん、良う動けたなぁ。まぁ……其の様子やと、流石に限界みたいやな」


 ズボンを降ろすと、岡崎は雫に覆い被さった。


「今から、此の女を犯したる。一輝くんが絶望して、泣くまで犯し続けたる」


 そう謂うと岡崎は、顕わに成った雫の乳房を舌で転がし始めた。怒りで気が狂いそうだった。身体の感覚は全く無く、謂う事を利いてくれなかった。執拗に乳房を弄(なぶ)りながら、雫の陰部へと手を伸ばす岡崎。


 殺して遣る。何が在ろうと、此奴だけは、絶対に殺す。殺意と憎悪が、渦巻いていた。身体の自由が効かない。全身に力を籠めようとするが、無様に鼻血だけが垂れた。気が狂いそうだった。


「何やお前……不感症か。おもろない女やな」


 吐き捨てながら、唇を重ねようと顔を近付けると岡崎は潰れた悲鳴を上げて、仰け反っていた。右目を抑えながら、暴れ狂っていた。立ち上がると、雫は此方に駆け寄ってきた。


「今の内に逃げましょう。動けますか?」


 雫は身体を引こうとするが、動けなかった。


「俺の事は良いから、雫だけでも逃げるんや……」


 吐き気がした。眩暈もした。身体の力が入らない。せめて雫だけでも、逃げ遂(おお)せれば良かった。


「一輝さんを置いて、逃げるなんて出来ませんっ!!」


 涙ながらに、首を振る雫。


「えらい事……して、くれるやんけッ!!」


 鬼の様な形相の岡崎の右目には、ボールペンが深々と刺さっていた。


「殺したるッ!!」


 岡崎は怒りを顕わにしていた。雫の首に、手を掛けていた。焦燥感と憎悪が心を撫でていく。声に成らない獣の唸り声。動かない身体。叫ぶ事しか出来ない無力な自分に、腹が立った。感覚の殆ど残らない身体で、必死に這った。少しずつ、少しずつ、雫の元へと這い摺った。雫は声一つ、上げなかった。岡崎の不快な笑い声。自身の叫ぶ声。


 ――不意に、乱暴に扉が開かれる音が、部屋の向こうから聞こえた。駆ける様な足音が近付いて来た。


「何の用や?」


 雫を放して岡崎が立ち上がる。前方に佇む八代を睨み附けながら顔を近付ける。八代は無言で岡崎に頭突きをかました。仰け反る岡崎に追撃を入れる。人中、天突、命門――正中線と呼ばれる人体の急所へ拳を叩き込んでいく。力無く崩れる岡崎。


「大丈夫っすか?」


 軽い口調で、屈託の無い笑顔を向ける八代。


 雫は起き上がると、此方へ駆け寄ってきた。


「一輝さん……。病院へ連れて行って下さい。紫陽花の毒に、侵されてるんです。早くしないと、一輝さんが……死んじゃう……」


 泣きじゃくる雫。もう、何度目の涙か解らない。


 意識が朦朧としていた。もう、全身の感覚が無かった。雫に抱き締められていたが、温もりすらも解らなかった。薄れゆく意識の中、雫の言葉だけを聴いていた。

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