11

 微睡みを劈(つんざ)くインターホンが、不快に意識を覚醒させる。どうせ新聞か何かの勧誘だと、無視を決め込もうとしていたら再度、鳴った。三度、四度、五度……何度も何度も鳴らす其の執拗さに、警戒心が強まる。見ると雫が不安そうな視線を投げ掛けていた。


 そっと気配を殺してモニター画面を覗き見ると、檀原公園で俺を襲撃して来た男の姿が映っていた。しつこい奴だった。在れだけ痛め附けておいたのにも拘わらず、狙って来るとは流石に以上だった。其れよりも警戒すべき点は、もう一人の存在だった。痩せ細った長身の男に、見覚えが在った。


 ――岡崎恋慈(おかざきれんじ)だ。【死にたがりの恋慈】の異名で、此の界隈では有名だった。高校の時に一度、遣り合った事が在る。嫌な喧嘩だった。幾ら撃っても、決して倒れないのだ。タフ、と謂うのとも少し違った。明らかなダメージを受けても倒れないのだ。其れがどんなに深刻で、致命的で在ってもだ。まるで死にたがっているかの様に、執拗に立ち開(はだ)かって来るのだ。


 何故、此奴(こいつ)が此処に居るか解らないが、不味い状況で在った。岡崎が此処に居ると謂う事は、一緒に居る男は富良野健司(ふらのけんじ)で在る可能性が高い。通称【不死身のフランケン】だ。二人は兄弟分で、此の辺では【死神兄弟】の名で恐れられていた。


 雫を護りながら、此の二人を同時に相手にするのは避けたかった。画面の隅で富良野が、針金を取って何やらしようとしているのが目に入った。不味い事に、ピッキングをしようとしている。俺は足早に玄関へと向かった。乱暴にドアが開け放たれて、富良野が突進して来ていた。避ければ、雫に向かって行きかねない。受けざるを得なかった。


 鈍い衝撃を全身に受けて、歯を喰い縛りながら踏ん張った。自分が全裸姿で在る事に、今頃に為って気付いた。


「雫……直ぐに俺のスマホで、八代に電話をしてくれッ!!」


 返事は返って来なかったが、聞こえているのは間違いなかった。運が良ければ、助けが来る。来なければ、何とか切り抜けるしかない。


「こんにちはぁ~……一輝君、久し振りやなぁ?」


 悪寒が走りそうな薄気味の悪い声と、喋り方は相変わらずだった。岡崎が気色の悪い笑みを張り付けて、此方を見ていた。其の手には、スタン警棒が握られている。


 腰に掴み掛かった富良野が、低い重心から物凄い力で引き摺り倒そうとしている。富良野は相撲とレスリングをやっていたと謂う噂が在る。


 此の儘、組み付かせているのはヤバい。


 両腕で富良野の頭を掴みながら、頭を引き摺り落としながら飛びついた。富良野の顔面に膝頭を撃ち衝ける。鼻が拉(ひしゃ)げる感触が伝わってきたが、ぐらつく気配は無かった。不死身の異名は伊達では無いと謂う訳だ。けれど其れは、覚悟の上だ。浮いた体の反動を利用して、左脚を富良野の左上腕部に絡める様にして身を捻る。同時に右脚で挟み込んで、確りとホールドした。


 飛び腕挫十字固(うでひしぎじゅうじがた)めが見事に極まるが、其れでも動じない。そして、動かない。狙いは岡崎の援護だろうか。はっきり謂って、今の俺は隙だらけだった。スタン警棒で叩かれれば、真面にダメージを受ける事だろう。併し此処で富良野の右腕を、奪っておく必要が在った。


 富良野の右腕にぶら下がる形でいる。骨盤を支点にして、富良野の腕を反らせている。肘関節が可動域を越えているので、綺麗に腕が伸び切っていた。富良野が幾ら肘を曲げて逃れ様としても、此方の背筋力の方が遥かに強い。幾ら富良野が巨体で在ったとしても、外す事は極めて不可能に近い。更に脚に力を込めて、富良野の頭部と腕を締め上げる。


 富良野の肘がバリバリと音がしていた。


 靭帯が損傷している音だ。此の儘、断裂するまで締め上げて遣ろうとした途端、背に鞭で叩かれた様な鋭い痛みと共に、骨に鈍い衝撃を受けた。そして其の刹那、電流が全身を駆け巡る。全身から力が抜けて、頭から落下した。


「俺の事を、忘れたら……アカンで。一輝君は、俺が……絶対に、気持ち良くしたる……」


 気色の悪い声。悪寒が迸る様な、気味の悪い薄笑い。怒張した股間。相変わらずの変態っぷりだ。岡崎は喧嘩に、性癖を持ち込んでいる。故に質(たち)が悪い。痛め附けるのも、痛め附けられるのも、其のどちらにも快楽を感じている。其の嗜虐的な性癖に付き合う心算は、端(はな)から無い。


 思ったよりも電圧は高くないのか、動く事は可能だった。だが其れでも、続けて喰らう訳には往かない。


 岡崎は追撃してこない。余裕からでは無い。どう痛め附けようかと妄想しているのだ。其の証拠に、怒張した股間は益々、脈打っていた。富良野は右腕を力無く垂らしていたが、此方を窺っている様だった。隙を見せれば、直ぐにでも飛び附いて来るだろう。


「一輝君……。君はやっぱり、美味しそうやなぁ。想像だけで、イってまいそうやわ……」


 荒れた呼吸は、性的興奮に依る物なのだろう。気色の悪い男だった。自分が全裸で在る事が心底、嫌だった。ホモのSM野郎の趣味に付き合ってやる暇も趣味も、持ち合わせていなかった。


 寝転がった体勢の儘、俺も機を窺っていた。極めて厄介な状況で在る。動くに動けない。先に動いた方がやられてしまう。だが、片方を叩いている間に、此方がやられてしまう。どう動いても後、一手が足りない。詰まりは手詰まり、と謂う奴だった。岡崎はズボンの上から、自分で弄(まさぐ)っている。気持ち悪い。


 最悪な事に昨日、富良野にやられた後頭部の傷が開いていた。流れ出る血が、床を濡らして往く。状況は最悪だった。全身を流れる冷や汗と焦燥感。生きた心地がしない。けれど雫だけは、何が在ろうとも必ず護る。


 ――どちらを先に、片付けるべきだろうか。逡巡するが、どうやら考えている暇は無さそうだった。富良野が先に、動いていた。前傾姿勢でヘッドスライディング気味に、突進して来ている。腹筋運動だけで上体を起こして、其の勢いで体を捻る。上手く機先を合わせながら、右腕で富良野の襟首を掴む。左腕は天を目掛けて伸ばす様な感覚で回転させて、右足は全力で地を蹴った。富良野の突進エネルギーに上手くタイミングを合わせて、横回転を掛けて遣る事で、互いの位置を反転させた。


 岡崎が独りで善がっている今が、唯一のチャンスだった。手際よく処理しなければ為らない。


 富良野に馬乗りになって、襟首を斜めに押さえ込んで締め付ける。左腕の逆関節を取っていた。袈裟固めと呼ばれる絞め技の一つだ。此の儘、左腕も戴くとしよう。思い切り力を籠めて遣ると、富良野の左腕が折れた。追い打ちを掛ける様に、顎を狙って拳を叩き込んだ。脳を揺さぶられて、富良野は意識を失った。背後で岡崎の気配を感じ取って、飛び上がる様に振り返った。


 打ち付けられるスタン警棒。護る事の一切を捨てて、全力で拳を顔面に叩き込んだ。鼻が潰れる確かな手応えと同時に、己の顔面を鋭い衝撃を受ける。


「ド変態がッ……殺すぞッ、ごるぁッ!!」


「良(え)ぇ表情やなぁ、一輝君。もっと、感じさせてやぁッ!!」


 恍惚の表情(かお)の岡崎。流れる電流。垂れ堕ちる血の雫。顔全体が異様に熱かった。痛みは不思議と感じなかった。只々、熱い。膝がガクガクと、震えていた。全身の力が抜けていく。立っているのも正直、困難だった。けれども、必死に歯を喰い縛って、抗い耐えた。此処で、倒れる訳には往かない。雫を護らなければ為らない。倒れられる訳が無かった。


「其の表情(かお)……堪らんなぁ。ホンマに……滅茶苦茶、興奮してまうわぁ!!」


 振り上げられた右腕。刹那、電流から、解放される。頭の血管が収縮されているのが、感覚的に解った。脳がダメージを訴え掛けていた。動かずに、迅速な休息を求めている。だが、無視をした。脳が、全身へ動くなと命令している。けれど、心や魂が其れを赦さない。


「がぁぁぁっ……殺したるッ……」


 獣の様な呻き声を上げながら、重い身体を引き摺る様にして、前に出た。躍動する心臓は、異常を訴えていた。脳の血管が、悲鳴を上げていた。全身の血液が沸騰するかの様に身体中、が迸(ほとばし)っている。遠退きそうな程に、視界が掠れて真っ白だった。雫への想いが、辛うじて意識を繋ぎ止めてくれていた。必ず護る。こんな処で、倒れてしまう訳には往かない。


 雄叫びなのか、呻き声なのか、悲鳴なのか、其れすらも解らぬ声。漏れ出ずる唾液。滴る血液。垂れ流された怒り。解き放たれた暴力が、岡崎を襲う。右の頬を打つ拳。痛みが快感に変わるのか、岡崎は恍惚の表情(かお)で嗤っている。尚も拳を繰り出した。何度も、何度も、拳を岡崎に撃ち衝けた。俺は一心不乱に、拳を放った。倒れる岡崎に馬乗りに為って、何度も、何度も、拳を撃ち衝けた。


 顔の原型が無くなって、岡崎は痙攣していた。据えた様な異臭が鼻を掠める。怒張した股間が痙攣していたかと思うと、急激に萎え始めた。気色が悪かった。倒れる二人を掻き分ける様にして、雫の元へと向かった。朦朧とする意識に懸命に抗った。倒れるのは、後からでも出来る。今は只、雫の傍に居たかった。


 ――雫を護る。


 今の俺の行動原理は、其れ以外に無い。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る