泉佐野市松風台。高級住宅地の一角に在るマンション【SKY HIGH】の七号室。2LDKの部屋が、俺の寝床で在った。今まで此の部屋に、誰一人として上げた事は無かった。


 耳を秘めやかに撫でるシャワーの音が、心を落ち着かなく揺さぶっている。淡い期待を心の奥へと押し込めながら、昂ぶる感情を鎮める事に務めた。雫がシャワーを浴びている。只、其れだけの事なのに、良い年をした大人なのに、緊張して困惑して期待している。どうしようもなく情けなくて、泣きたくなる。


 時計の針は、午前六時を差して間も無い。跳ね上がる心拍数を抑えながら、雫の言葉を思い起こした。


『一輝さんの家に、置いてくれませんか?』


 其の言葉の真意を、諮(はか)り兼ねている。雫と共に住める事は、素直に嬉しい。だが何故、出逢って間も無い俺なのだろう。解らなかった。余程に行く宛が無いのだろう。俺は其の弱みに付け入る様な真似をしている。最低な男だった。


 雫は一体、どんな気持ちで居るのだろうか。解らなかった。不意に、三年前の記憶が蘇る。血に塗れた男。涙に表情(かお)を染め上げ恐怖しながら、助けを懇願している。砕けた歯の欠片が拳に刺さる感触を、今でも憶えている。地に這い蹲(つくば)りながら、何度も何度も懇願する男に、俺は容赦無く何度も何度も踵を叩き衝けた。顔面がグシャグシャに成って、男が力無く横たわるのを見届けて、立ち去った時の俺は何も考えていなかった。感情を押し込めて、何も感じない様にした。


 男の名は五十嵐義久(いがらしよしひさ)と謂った。どうして今更、そんな事を思い出しているのかは解らない。けれど、雫と無関係では無い。頭の中から必死に振り払いながら、俺は立ち上がっていた。浴室から、雫の呼ぶ声がしたからだ。バスタオルに身を包む其の姿を見て、心臓を叩き衝けられる様な衝撃を受けていた。肢体を覆う其の断片が、顔を覗かせていたからだ。


 其の表情には、覚悟の色が窺えた。同時に憂いを帯びてもいた。


「一輝さんに……話さなければ、往けない事が在ります」


 畏(かしこ)まる雫に気圧されまいと、真っ直ぐな瞳を見詰め返した。どうしようもなく心が落ち着かない。この期に及んで俺は未だ、腹が括れていなかった。どうしようもなく愚かで醜い心が、吐き気がする程に嫌に成る。


 バスタオルを開(はだ)けさせる雫。一糸纏わぬ姿に成っても尚、美しい其の姿。華奢で滑らかな身体のラインは、猫を思わせる程に柔らかくて温かそうだった。全身を包む刺青。倶利迦羅紋々(くりからもんもん)の中を厳かに這いずる毒蝮(どくまむし)。大凡(おおよそ)、雫のイメージに似付かわしくない其の姿がアンバランスで、美しくも思えた。隆起する乳房に思わず視線が止まって、男の性(さが)が目を覚ます。


「私は……曾て、ヤクザの愛人をしていました。真面な奴じゃないんです……。一輝さんの傍に、居る様な女じゃ無いんです……」


 四度目の涙が、静かに雫の頬を濡らす。胸に喰い込む罪悪感。話すならば、今しか無い。譬え嫌われ様とも、話さなければ為らない。


「知ってる……。俺も、雫に話さんとアカン事が在る」


 驚いた様な表情(かお)をする雫。今、此処で覚悟を決めなければ為らない。でなければ、きっと後悔する。


「俺の父方の姓は嵐山。兄の名は、晃……」


 瞳孔が大きく見開かれるのが解った。涙の色が、次第に濃く成って往く。嗚咽に混じる声。次第に激しく為る声。心を掻き毟る雫の泣きじゃくる声が、どうしようもなく辛かった。


「ごめん……黙ってる心算(つもり)は無かった。只、話す勇気が中々、出てこんかった」


「解ってる……私も、話すのが怖かった。一輝さんに、嫌われるのが……怖かったの」


 愛しさと哀しみが触れ合いながら、優しさと怒りとが混ざり合う。己自身への怒りが、俺の中の感情を駆り立てる。雫の涙が、どうしようもなく辛いのだ。出逢ったばかりなのに、どうしてこんなにも惹かれているのだろう。どうしようも無く愛おしくて、悔しくて歯痒かった。苦しくて、切なくて、心が張り裂けてしまいそうだった。堪らなく為って、雫を抱き締めていた。


「俺は……雫が好きや。どうしようもなく、雫の事が、好きなんや!!」


 嫌われたって良い。逢えなく成ったって良い。雫を抱き締めて遣りたかった。愛しさが込み上げて、様々な感情が渦巻いていた。雫の柔らかな温もりが、心地良かった。大好きな気持ちが止まらない。雫が欲しくて欲しくて、堪らない。堪え切れない想いと、抑え切れない欲求が、雫を悪戯に――只々、悪戯に求めていた。


 どうしようもない己の欲求に抗い切れないでいた。雫は拒む事もせずに只々、嗚咽を漏らしている。


「雫の過去に、何が在ったのかは……知ってる。兄貴と何が在ったのかも全部、知ってる。けど……其れでも、俺は雫と一緒に居たい。知ってるからこそ……放って置けなかった。初めて檀原公園で雫に出逢った時に、本気で惚れた。此の気持ちに、嘘偽りは無い。約束する……必ず雫を、誰よりも幸せにする。何が在っても……絶対に、護る。今、此処で誓う。此の命に代えてでも、絶対に雫を護る」


 何も答えない雫。荒れた呼吸を抑えるかの様に、次第に泣き声は小さく為って往く。


「……良いの?」


 消え入りそうな、小さな声。


「私なんかで……本当に、良いの?」


 辛そうな、苦しそうな声。どうしようもなく、雫が愛おしい。


「雫やないと、アカン……」


 出逢って直ぐに墜ちた恋だった。御互いの事も未だ、良く知らない。どうしてこんなにも惹かれているのかも正直、解らないでいる。けれど、迷いは無かった。何が在っても、必ず護り貫く覚悟は出来ている。


「私は……一輝さんが思う様な、女じゃないかも知れないんだよ。本当に最低な事をして来たし……多くの人を裏切ってきた。其の癖、こうして逃げてる様な女だよ……?」


 雫の身内がマスコミの餌食に成った事も、事務所の関係者がどうなったかも、全て知っている。俺は其れ以上の過ちを犯してきた。其れでも俺は、雫を求めている。


「そんな事、関係ない。俺かって、雫を追い込んだ人間や。そんな俺が、雫を好きに成る事自体が筋違いなんも理解(わか)ってる。其れでも俺は、雫に惚れてるねん。どうしようもなく、惚れてるんや。俺の傍に、居ってくれ!!」


 雫の頬に、優しく手を当てる。潤んだ瞳に吸い込まれそうに為る。どうしようもなく魅了されて往く。脳内で感情と謂う名の蛇が蜷局(とぐろ)を巻いている。其の毒は純度が高く俺の脳を、艶やかに怪しく侵して往く。気が付くと柔らかそうな唇に視線を向けていた。愛しさと切なさと哀しみが、複雑に絡み合って、気が付けば俺は考えるのを止めていた。


 重なる唇の感触は、柔らかで、温かで、愛に濡れていた。柔らかく華奢な雫の身体を、力強く抱き締める。ごちゃごちゃと考えるのは、もう止めだ。俺は心の底から雫に惚れている。成らば、全力で護るだけだ。只、其れだけだ。


 愛しさが純度の高い毒の様に、俺の心を侵していく。堪らなく雫が愛おしい。堪え切れない程に、雫が欲しい。どうしようもないぐらいに、泣きたく為る程に、雫が好きだ。


「俺は雫が好きや。誰よりも、何よりも、雫の事が好きなんや。絶対に俺だけは、雫の事を裏切らへん。何が在っても、雫を護る。誰よりも……雫の事を世界一、幸せにする。嘘偽りない此の想いを、雫に誓う。誰よりも、雫だけを愛してる!!」


 堪え切れない想いと共に、雫を只々、抱き締めていた。


「私は……私は、誰かに愛される資格なんて……無い。色んな人を裏切って、傷付けて……逃げてる様な最低な女。愛される資格なんて――」


「黙って、俺だけを見てれば良い。俺だけの声を、聴いてれば良い。俺だけを、感じてれば良い。余計な事は一切、考えるな。雫は俺が護る。雫は、我が儘に……自分勝手に、幸せに成る事だけを、考えてれば良い。譬え誰かが……其れを赦さんかっても、俺の傍で笑っててくれ。何が在っても、絶対に護る!!」


 涙ながらに答える雫の声を遮って、想いを伝える。


「本当に……良いの?」


 震える声。不安そうな、哀しそうな、雫の愛しい声。


「私……幸せになっても、良いの?」


「幸せになって、良いんやで。俺が、雫を世界一の幸せな女にしたる!!」


 強張っていた雫の身体が、腕の中で穏やかに力が抜けていく。完全に、俺に身を委ねてくれていた。其の事が、嬉しかった。


「本当に……一輝さんを信じて良いの?」


 顔を上げる雫の顔は、涙と鼻水でグシャグシャだった。どうしようもなく愛しさを掻き毟る。


「俺を信じて。絶対に、ずっと雫の傍に居る。何が在っても雫から、離れない」


「私……本当に、面倒くさい女だよ。其れでも、良いの?」


「当たり前やんか。ほんまに……俺は雫の事が、大好きなんやで。何が在っても、雫の傍を離れへん。絶対に幸せにする。雫が辛い時も、楽しい時も、ずっと傍に居る。だから……俺の傍に、居て欲しい。いつまでも、ずっと雫に居て欲しい」


「私も……」


 泣き濡れたグシャグシャの笑顔が、堪らなく愛おしい。


「一輝さんが、大好き。ずっと、傍に居たい。ずっとずっと、傍に居て欲しい。我が儘かも知れないけど、私だけを見ていて欲しい」


 心が愛しさで張り裂けそうだった。切なさが嬉しさと重なって、涙が零れていた。雫を必ず護る。何が在っても、必ず護る。譬(たと)え、兄貴に――斗神會に背く事に成ったとしても、構わない。雫だけは、必ず護る。


「ずっと、傍に居るからな。雫以外、目に入ってへんねんからな。大好きやねんで。ホンマに心から雫を、愛してるねんで。だから……何も、心配するな。俺が絶対に、雫を命懸けで護る!!」


「うん……」


 雫を抱き締め続けた。ずっと、雫の温もりを感じていたかった。


 もう一度、優しく雫に唇を重ねた。

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