8
早朝。午前五時。
春の夜明けを告げる鳥達の歌声を聴きながら、雫と二人で歩いていた。次第に明らむ東の空。無言で歩きながら、雫に目を遣る。其の表情からは、感情が読み取れなかった。只、其の胸中が穏やかでは無い事だけは、歴然としている。実の処を謂うと、雫の存在を知ったのは、最近の事では無い。其れは只単に、I's(アイズ)のsihomiとしての彼女を知っていると謂う事では無い。
I'sとは、三年前まで絶大な人気を誇ったアーティストだった。彼女の歌声に、日本中が酔い痴れていた。出す曲が悉くミリオンセラーを記録していた。処が在る時を境に、忽然と其の存在は闇に葬られてしまった。其の原因は不倫で在った。其れだけ成らば、彼女ほどの人気が有ればどうとでも成っていた筈だ。問題だったのは、其の相手だった。当時の斗神會の若頭筆頭候補で在る嵐山晃が、雫の相手だった。
――そう。俺の実の兄だった。
此の事実は一部のマスコミと、組の上層部しか知らない。ヤクザの愛人だった事実は、斗神會がマスコミに圧力を掛けて、差し止めさせた。其の際には、俺も随分と動かされた。直接、彼女には逢わなかったが、心の何処かで彼女の存在が気に成っていたのかも知れない。
其の事を雫に話せないでいた。
話せる訳が無かった。
一体、何と謂えば良いのか解らない。俺は貴女の不倫相手の弟ですなんて謂えば、間違い無く傷付けてしまう。上手い言葉が見付からないのだ。けれど、話さない訳には往かなかった。
けれども初めて桜の木の下で出逢った時、感じた在の感情は決して嘘では無い。今も其の想いは強まる一方で在った。雫への恋心が増していく程に、罪悪感が鬱蒼(うっそう)と積もり積もって往く。話せば雫を傷付けてしまう。けれども話さなければ、何(いず)れ明らかに成った時に、同様に傷付けてしまう。
話さなければ往けないのに、話せないでいた。
こう謂った事に、俺は余りにも無力だった。其れは罪で在り、単なる言い訳に過ぎない事は解っていた。けれども、我が儘を謂う成らば、もう少しだけ時間を置きたかった。狡(ずる)かろうが何で在ろうが、今の俺には伝えるべき言葉が足りなかった。
「暴力は嫌いです……」
唐突に、雫が口を開く。其の声は凛と澄んでいた。けれど、何処か哀しそうだった。其の哀しみの訳は、過去の出来事を彷彿とさせているからで在ろうか。暴力の世界に身を置く身としては、何も反論できはしない。自分の様な人間が、雫に愛されたいと願う事自体が、筋違いで在る事は解っていた。けれど、想いを止めれずにいる。
求めずには要られない。雫の全てが、欲しくて仕方が無い。どうしようもなく狂おしい程に、雫を求めてしまう。邪魔する者は総て排除してでも、雫を手に入れたかった。こんな身勝手な感情を抱く最低な男を、果たして雫は受け入れてくれるだろうか。総てを知った上で、雫は俺と謂う存在を見てくれるだろうか。自分の事ばかりを考えている。雫への配慮に、欠けている。
身勝手な欲望だけが、心を掻き乱していく。
「私は……一輝さんの事を、もっと良く知りたい。けれど、暴力を振るっている時の一輝さんは……」
途端に言葉を噤む雫の目には、涙が浮かんでいる。既に三度目の涙で在る。三日間で三度、泣かせてしまっている。
「ごめんなさい……。どうしようもなく、恐いんです。暴力がじゃない……」
涙を流しながら、真っ直ぐな瞳を此方に向けられて、心が――又、更に掻き乱されていく。
俺は何も謂えないでいた。こんな時に、だんまりを決め込むなんて、自分でも卑怯だと謂う事は解っていた。けれど、何も謂えないでいる。雫が求める言葉が、見付からなかった。
――俺は、最低だ。
「失うのが、恐い……」
呟く様に謂うと、雫は目を伏せた。
哀しみとも焦りとも附かない感情が、胸中を撫でている。何も応えられないでいる。どうしてこんなにも、臆病なのだ。無力な自分が、卑怯な自分が、赦せなかった。本当に最低な男で在る。
「俺は……」
静かに言葉を発しながら、雫を真っ直ぐに見詰める。其の瞳を見ていると、愚かな自分が本当に嫌に成る。けれど、逃げる訳には往かなかった。
「俺には暴力でしか、人を護る手段が無かった。言い訳かも知れないが、仲間を護りたかった。譬(たと)え其れが、人の道から外れていようとも……暴力に頼る事しか出来なかった」
心に纏わり附く此の感情は一体、何なのだ。罪悪感とも哀しみとも取れぬ此の感情が、俺を激しく揺さぶっていった。
弱い自分が嫌いだった。虐げられて生きるのも嫌だった。子供の頃からのコンプレックスを克服する為に、必死で体を鍛えた。血反吐を吐き血便が出る程に、自分を追い込み続けた。色んな知識を身に付けて、効果的に取り入れながら筋力トレーニングをした。空手やレスリング、柔道、総合格闘技……色んな門徒を叩いては、取り込んできた。其の過程で、多くの仲間が出来た。友の大切さを、痛い程に痛感した。
仲間を護る為ならば、どんな犠牲も厭(いと)わなかった。気嫌いしていた兄の元で、目を背けたくなる様な仕事もして来た。
今更、自分を正当化するつもりも無い。多くの人間を自身の暴力で、傷付けて来た事は事実なのだから――決して赦される様な事では無い。其れは初めから、覚悟していた筈だった。けれど雫に嫌われる事が、どうしようも無く辛いのだ。
「俺が歩んで来た道は、人に顔向け出来る様な物じゃない。其れでも俺は……」
――雫と一緒に居たい。其の言葉を飲み込んで、目線を逸らしていた。真面(まとも)に顔を見る事さえも出来ないでいた。
「私も、人に顔向け出来る様な生き方をしていない……」
上擦る雫の声。哀しみだけが、心を苛み続けている。明けの空だけが只、美しく澄んでいて泣きたくなる。
「私は……大きな過ちを犯して来たの」
辛そうな声。其の全てを知っている事すらも、俺は黙っている。其の事を、話せずにいる。俺は最低な男だ。本当に最低な男だった。
始発電車に乗る為に、サラリーマン風の男の姿がちらほらと、通り過ぎていく。東岸和田駅の改札前。駅員が眠たそうな顔で、此方に視線を送っていた。雫も其の視線に気付いたのか、寂しげな微笑を浮かべた。
「ごめんなさい……一輝さん疲れてるのに、こんな話しして」
寂しげな瞳に、愛しさが込み上げてくる。だけど、何も答えれずにいた。
「私なんかが、こんな御願いするのも、おかしいんですけど……」
伏し目がちに、雫が後を続ける。
「一輝さんの家に、置いてくれませんか?」
意外な雫の申し出に、思わず呆気に取られていた。雫の顔を、唖然とした様子で見ていたに違いない。
「駄目ですよね。こんなの……私、何言ってんだろ。忘れて、下さい……」
ぼろぼろと涙を流す雫が、余りにも可愛く思えて、愛おしかった。弱みに附け入る様だったが、己の欲望に抗えない。本当に、反吐が出る程に最低だ。
「俺の処で良いなら、幾らでも居れば良い……」
雫を抱き締めながら、応えていた。
最低だろうが何で在ろうが、離したくはなかった。どうしようも無く、雫を求めている自分が居た。傷付けてしまう事は、理解(わか)っている。けれども、求めずにはいられないのだ。そんな俺の胸中を知らない雫は、腕の中で只々、泣き続けていた。視界の隅で駅員が、ばつが悪そうに此方を見ていた。別にそんな事は、どうでも良かった。雫の泣き声が静かに、心を苛んでいた。
「ごめんなさい……。本当に、ごめんなさい……」
何度も泣きながら、雫は謝り続けた。自分自身に無性に腹が立った。やり場の無い己への怒りが、辛うじて正気を保たせてくれていた。最低な自分に、腹が立ったのだ。
「もう……此れ以上、謝るな」
此れ以上、謝られるのは耐えられない。込み上げる愛しさと、己への怒りと、哀しみのカクテルが頭の中で、真面な感情を麻痺させていく。欲望と謂う名の悪魔が、俺の中で息衝こうとしていた。其の感情に抗いながら、必死で藻掻(もが)きながら、雫を引き離した。驚いた様な表情(かお)をする雫に、笑い掛けてやる。涙でぐしゃぐしゃの顔。本当に泣かせてばかりで、罪悪感が胸を掻き毟る。
叶うの成らば、三年前の自分を殺してしまいたかった。
「兎に角、此処を動こう……」
俺の申し出に、雫は静かに頷いた。気不味い空気の中で、切符を買って改札を抜けた。雫の肩を抱いて、ホームへと向かった。電車の姿は無い。
俺達は只、無言で電車を待ち続けた。
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