6
目覚めて最初に飛び込んで来たのは、雫の涙だった。涙でくちゃくちゃに成った雫の顔が心底、愛おしいと感じた。俺の左手を両手で包み込む様に握られていた。優しい温もりが、愛しい。
「良かった――目覚めて、本当に良かった……。一輝さん……本当に死んじゃうんじゃないかと、思った……」
泣きじゃくる雫の声が愛おしい。其の瞳も唇も髪も、何もかもが愛おしい。
「絶対に、私を残して死なないで!!」
其の言葉が、心に突き刺さる。切なさと共に嬉しさが込み上げる。堪らなく雫が愛おしい。
「お願いだから、約束して……絶対に、死なないで!!」
「約束する。絶対に死なん……」
雫の勢いに圧されて、そう答えていた。
「ちゃんと、約束して。本当に、約束して!!」
まるで、駄々を捏ねる子供の様に、懇願する様に、雫が叫んだ。
「約束や。絶対に、俺は雫を置いて、死なん!! 絶対やからな!!」
今度は力強く応えた。心からの本心だった。
「お前等、煩いこっちゃで……ホンマに!!」
突然、上がる消魂(けたたま)しい嗄(しゃが)れた声。聞き憶えの在る其の声を聞いて一瞬、さぁ~っと……血の気が引いた。幼い頃から、いつも此の声に怒られてばかりいた。此の病院のオーナー兼専門医で在る桜庭以蔵の叫び声だ。さっきまで抱いていた雫への想いや幸福感が、爺ちゃんの所為で台無しだ。
「久し振りやのぅ、一輝。いっちょ前に、女こましよってからに!!」
雫の表情が、一瞬で引き攣(つ)ってしまっていた。俺もきっと、似た様な表情(かお)をしていたに違いない。爺ちゃんは誰が相手だろうと、一切の遠慮なんてしない。だから言葉も選ばないし、口が悪い。だけど、決して悪気が在る訳じゃない。少し不器用なのだ。
尤(もっと)も俺は、爺ちゃんが苦手だった。
「喧(やかま)しい。雫に失礼やろうがっ!!」
何故か隣りで、嬉しそうな顔をしていた。其れが、異様に可愛かった。思わず雫に向き直っていた。
「何でそんな、嬉しそうな顔してるん?」
聞いていた。純粋に知りたかったからだ。
「初めて呼んでくれましたね?」
物凄く穏やかな表情(かお)で笑う雫に癒されたが、言っている意味が理解(わか)らなかった。
「名前、呼ばれるのって……やっぱり、嬉しいですね。……一輝さん?」
上目遣いに、思わず表情が綻んでいた。可愛い過ぎる――反則やろ。思わずそんな事を想いながら、笑い返していた。確かに名前を呼ばれるのは滅茶苦茶、嬉しかった。雫に名前を呼ばれるだけで、心が跳ね踊る。
「滅茶苦茶、嬉しい。死ぬ程、嬉しいで!!」
「こら、アカン。此奴等(こいつら)、重病やな。恋煩いに附ける薬は在らへんで!!」
さもつまらなさそうに、爺ちゃんが部屋を出て行った。爺ちゃん成りに気を遣ってくれているのだと、勝手に解釈する事にした。雫が何故か、恥ずかしそうに目を伏せていた。そんな雫の仕草に又、心が締め付けられた。どうしたって、何をしたって、雫への想いは溢れる程に込み上げてしまう。
「――あのね、一輝さん」
急に畏まった様に、雫が此方を向き直る。
其の表情が、とても真剣な物だったので、俺も思わず畏まっていた。
「どないしたんや?」
緊張の為、声が裏返ってしまっていた。けれど、雫は構わず口を開いた。
「変な事、聞いても……良いかな?」
「――ん? 良いで。何でも聞いてや!!」
平常心を装いながら、答えるが実は気が気じゃない。一体、何を言うのかと……内心、ドキドキしていた。
雫の表情が余りにも真剣で、真っ直ぐな瞳で見詰められて、心を蠱惑的に捉われた。どうしようもなく、雫に心を捉われていた。
「私、おかしな事……言ってませんでした?」
思い返してみると、思わずにやけてしまっていた。
――しまった。と思って、直ぐに表情を取り繕うが、既に遅かった。
「何で、笑うんですか? 絶対、私……変な事、言ってましたよね?」
顔を赤らめる雫が、余りにも可愛過ぎて、更に表情が緩んでしまう。
「言ってへんよ。大丈夫やで」
「絶対、嘘ですよね……恥ずかしい」
――もう、駄目だ。我慢、出来ない。
腕の中で、戸惑いが揺れる。
気が付くと、雫を抱き締めていた。
「何も謂わんで、聞いて欲しい」
動かない雫。柔らかな温もり。鼻腔に触れる甘やかな髪の薫りが、心を優しく撫でた。何故だか、心が安らいでいた。
「俺は、雫が好きや。出逢ったばっかりやけど、どうしようもなく好きなんや。だから……雫の事を、もっともっと、知りたい。ずっと、一緒に居たい。いきなりこんな事、言うのはおかしいかも知れんけど、本気なんや」
沸き上がる感情を、此れ以上は抑えられなかった。どうしようもない熱情と衝動に駆られていた。
「壊れそうに成るぐらい心が掻き乱されて、おかしくなりそうなんや。今直ぐ、応えらんでも良い。ゆっくり時間を掛けて、考えてからで良い。答えを、聞かせて欲しい」
雫の顔を見ると、涙に濡れていた。何も謂わずに只、俺を見ているだけだった。静かに只、ゆっくりと時間だけが流れていた。雫が口を開くのに、どれ程の時を要しただろうか。優しい小鳥の囀(さえず)りの様な声で在った。
「解りました……確(しっか)りと考えてから、応えさせて頂きます」
其の表情は、優しくて哀しい。嬉しそうな、泣きそうな。そんな、表情(かお)だった。愛しくて切なくて、狂おしい程に雫を求めていた。こんな独り善がりな感情を、雫は一体、どんな想いで受け止めたのだろうか。何も謂えずにいると、スマホが着信を告げていた。
「ごめん……」
雫から離れて、スマホを手に取る。
八代からだった。
「どうした?」
大凡(おおよそ)の見当は附いていた。
「お疲れ様です。神江の身柄(がら)、いつでも押さえられます。どうします?」
案の定だ。八代は血の気が多い。放って置くと、遣り過ぎてしまう。俺は調べろと伝えた筈なのに、既に周囲を囲んでいる様だった。俺が行かなければ、事態は収拾が着かなく成ってしまいそうだ。雫は何も謂わずに只、此方を見ているだけだった。時刻は午前二時を過ぎていた。病院特有の無機質な白が、好きに成れなかった。簡素で整然とした空間。其処には一切の感情が籠められていない様に思われたからだ。
古惚けてはいるが、清潔感の在る此の場所が嫌いだった。
「今直ぐ、行く。場所は?」
吐き捨てる様に問い掛けながら、雫から目線を外す。彼女を真っ直ぐに見詰める事が出来なかった。軽蔑されるのが、恐かった。俺はいつから、こんなにも臆病に成ったのだろうか。。
――きっと、最初からだ。
幼い頃から抱える弱さを、俺は未だに払拭し切れないでいるのだ。雫を見ていると、どうしてだか幼い頃の自分を思い出す。暴力に独り只、怯えていた弱い自分が嫌いだった。『弱い』事にコンプレックスが在った。だからこそ力を求めて、暴力の世界に身を置いた。そんな自分を、雫に知られたくは無かった。嫌われるのが心底、恐かった。
「ガシに在るイズミヤの駐車場です」
八代が告げるガシとは東岸和田を指す言葉だ。此処から随分と近い。歩いて行っても、十分程で着くだろう。
「解った。俺が行くまでは、下手に動くなよ」
其れだけ伝えると、通話を切った。雫が歩み寄る気配が、背後でした。心拍数が跳ね上がるのが、自分でも解った。
ゆっくりと振り返ると、此方を見ながら口を開いた。
「何処へ行く気ですか?」
其の表情は、強張っていた。不安そうな表情(かお)をしていて、切なく成った。
尚も言葉を続ける雫。
「一輝さん、怪我してるんですよ。安静にしなきゃ……駄目ですよ」
遠慮がちな口調。併(しか)し確りと此方を見ている。胸が締め付けられた。
「仲間が、待ってるんや。大丈夫……直ぐに、戻るから」
表情を緩めて、穏やかな口調で宥める。対照的に、雫の表情は強張っていた。
「どうしても、行かなきゃ……いけないんですか?」
其の瞳は相変わらずに真っ直ぐで、力強い意志を宿していた。だからなのか、目を放せないでいた。
「どうしても、行かんとアカン。俺が行かんと、大変な事に成ってまうねん」
真っ直ぐに雫を見詰め返して、力強く応えていた。雫に嫌われるのは、確かに恐かった。其れでも行かなければ、往けなかった。仲間を裏切る訳には往かない。
「行かないで下さい……」
雫の頬を、一筋の涙が伝っていた。
「我が儘なのは、解ってます。出逢ったばかりの私なんかが――何言ってんだって、言いたいのも解ります。けど、だけど……行かないで、欲しい。だって、一輝さん……危ない事、しようとしてるんでしょう?」
涙の粒は、次第に大きく成っていく。
今日、二度目の涙の雫。
出逢って二日で、二度も泣かせるなんて、俺は最低だ。そんな男に、愛される資格なんて無いのかも知れない。愛しくて仕方が無いのに、触れれば傷付けてしまう。其れが哀しくて、仕方が無かった。
「待って……」
無言で立ち去ろうとする俺を、縋る様に引き止め様とする雫の声が辛かった。だけど、立ち止まる訳には往かなかった。パーカーの背中を掴む雫の腕を、振り払っていた。嗚咽に混じる声で、雫は尚も叫んだ。
「どしても行くんなら、私も行きます!!」
構わずに俺は行こうとして――
「――え?」
間抜けな声を発していた。
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