薄暗い室内。テレビの照明に照らされた晃の無表情な顔が、堪らなく嫌いだった。幼い俺の身体に、撃ち附けられる拳。鳩尾に喰い込む拳が、肺の空気を絞り出していた。鈍い痛みが、涙と嗚咽を誘う。胃の中身が逆流していたが、手で抑えながら、懸命に堪えた。吐き出せば、更に酷い仕打ちが待っているからだ。胃液の酸っぱさと、消化し切っていない其れ等が混ざり合って、得も言われぬ不快感が口内を占めている。


 どうして自分は、幼い頃の夢を見ているのかは解らなかったが、此れが夢で在る事は解った。


「お前を見てたら、腹が立つんじゃ……ボケが、殺すぞ?」


 ベルトで首を絞めながら、晃は俺の爪先を踏んだ。中指の小指に全体重を掛けられて、爪が割れても御構い無しで、晃は踏み続ける。右頬に堅い拳の感触が伝う。二度、三度。四度目で、俺は哭き喚いていた。


「もう、嫌やっ……止めてよぉっ……!!」


 無表情な儘、晃は嗤(わら)う。嗤いながら、鼻頭を頭突いた。晃は人を甚振(いたぶ)る天才だった。どの程度ならば、目立たない怪我で留めれるのかを計算しながら、虐待をしていたのだ。其の証拠に、六年間もの間、誰にも気づかれない儘、晃から虐待を受け続けた。晃が東京の大学に行く為、家を出た時、俺は心の底から安堵していた事を憶えている。


「黙れっ……殺すぞ!!」


 全身を滅多打ちにしながら、晃は罵声を浴びせて来た。


「お前みたいな奴は、死んでも誰も気にせぇへんねんぞ。糞みたいな顔(つら)しやがって。死ねば良い。俺が殺したる。死ね、死ね……」


 死ね、と連呼する。殴る度に『死ね』と謂う言葉が、幼い俺の心に突き刺さる。泣きながら声を上げるが、誰も助けてはくれない。日常的に繰り返される地獄が、幼い俺の心を確実に蝕んでいく。


 当時の俺は未だ小学校に上がったばかりだった。晃は中学に上がって暫くしてから、様子がおかしく成った。毎晩の様に自分を部屋に連れ込み、鍵を掛けて虐待を繰り返す様に成った。防音の壁に遮られて、泣き叫ぼうとも助けは来ない。そもそも、家には両親が不在で在った。オトンは週に一度、帰ってくれば良い方だ。オカンは俺が物心ついて直ぐに居なくなった。


 場面はいつの間にか、別の場所に切り替わっていた。晃の姿は、何処にも無い。真っ暗な空間に放り出されていた。只、オカンの声だけが、聴こえてきた。


「ごめんね……。ホンマに、ごめんね」


 遠い遠い記憶の底から聴こえるオカンの声が、酷く不快に感じられた。此の言葉を最期に、オカンは居なく成った。


 ヤクザと共に、蒸発してしまったのだ。


 けれど、其の事に対してオカンを怨んだ事は、一度として無かった。オカンは母親としてではなく、女としての人生(みち)を選んだと知ったのは、随分と先に成ってからだったが、幼い俺に取っては本当に、どうでも良い事だった。


 けれど、雫に出逢って恋をした今の俺成らば、当時のオカンの気持ちが理解(わか)る様な気がした。愛する人と一緒に成れるの為らば、道を外れる事は、きっと苦に成らない。もしも、俺が誰かと結婚をして、家庭を持っていたとしたら、雫と駆け落ちをしていたのかも知れない。


 気が付くと、涙が溢れ出していた。


 何故だか左手が熱い。不意に、雫に呼ばれた気がして俺は目覚めていた。

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