4
4月9日。
もう直ぐ散り逝く桜の花弁達。
其の最後の煌きに包まれながら、彼女は歌っていた。
温かな木漏れ日を浴びて、風達に包まれて、美しい歌を色鮮やかに響かせていた。煌びやかに彩られた其の歌が、優しくて柔らかくて、ふと愛しさが込み上げていた。どうしようもなく彼女に魅せられていて、心奪われている。穏やかに、けれど艶やかに、甘い幻想を抱かずには居られなかった。風が誘ったのか、彼女の歌声が呼び起こしたのか、花弁達が風に舞いながら笑っている様だった。
彼女の歌声は、まるで桜色。いつまでも、いつまでも、聴き入って居たい。
美しい彼女は、まるで春模様。いつまでも、いつまでも、魅入って居たい。
「御待ちしてました」
雫は此方に気付くと、微笑を浮かべながら真っ直ぐな瞳を向けた。雫の眼差しを受けて、何処か心が落ち着かない。平静を装いながら、表情を和らげてみる。上手く笑えているだろうか。自分自身の問い掛けが、酷く滑稽で愚かに思えた。其れでも雫に嫌われたくなくて、心に留めて貰いたくて、口を開いていた。
「御待たせ。実は今日、誕生日で先(さっき)まで、仲間の処に居てた」
何を話して良いのか解らずに、どうでも良い事しか出て来なかった。特別に話下手と謂う訳では無かった。異性と話すのが苦手だと謂う訳でも無かった。なのに俺は何故か、雫を前にして緊張していた。
「お誕生日、おめでとうございます。けど折角の大切な日を、私なんかに使って……大丈夫ですか?」
遠慮がちな口調。敬語で話す雫。見えない壁を感じて、途端に苦しくなる。
「気にせんで、大丈夫。待っててくれて、ありがとう」
精一杯の笑顔を向けるが、もしかしたら肌骨(ぎこち)なかったかも知れない。其れでも雫は、優しく笑い返してくれた。其れだけで、不思議と心が晴れやかに成っていた。
「良かった。昨日、待ってますとか言っておいて……嫌がられたらどうしようって、本気で心配してました。ごめんなさい……」
僅かに潤んだ瞳に見詰めれて、鼓動が跳ね上がる。本気で、胸が苦しい。此れは、恋の所為なのか。実は何か病気で苦しく成っているのかと、本気で悩んでしまう程に胸が締め付けられていた。大袈裟かも知れないが、其れぐらい雫に魅せられている。
「俺も……待っててくれんかったら、どないしようかと思った」
待っててくれなかったら、本気で落ち込んでいただろう。多分、暫く立ち直れない。
「嬉しい。私、子供みたいに……直ぐに本気にしちゃうから、嘘でも凄く嬉しいです」
はにかんだ様に笑う雫が、死ぬ程、可愛かった。嬉しさの余りに、顔の筋肉が緩んでしまいそうだった。
「嘘やないで。本気で、待っててくれて嬉しいねんで!!」
思わず本音が飛び出してしまう。込み上がる想いを抑えながら、だらしなく緩もうとする表情を堪えながら応えていた。少し驚いた表情をして、雫は穏やかな微笑を浮かべた。
「ありがとう……」
話したい事がいっぱい在り過ぎて、上手く言葉が出て来なかった。そんな俺に気付いてか、雫が先に口を開いた。
「実はね……私も、昨日が誕生日だったの……。そんな事、どうでも良いですよね」
「そんな事ない。お祝いしよう。何かご馳走するで!! 実は今日、臨時収入が入ったねん。何処でも、好きな所に連れてったるで!!」
パチンコは結局、大連チャンに次ぐ大連チャンで、十二万円のプラス収支に成った。だから、幾らでもしてあげれる。其れに、してやりたかった。雫の喜ぶ顔が、もっと見たかった。雫の為ならば、金なんて少しも惜しくない。
「そんな……私の為に、折角のお金を使わないで下さい」
困った様な雫の表情(かお)が、哀しかった。遠慮なんか、して欲しくなかった。笑顔が見たかった。
「遠慮せんで良いねんで。俺が、祝ってやりたいねん。美味しい鰻屋が在るねんで。隠れた名店で、めっちゃお勧めやねんで。是非、食べさせてあげたい。嫌いかな?」
言ってから、後悔した。もっと、風情の在る物をチョイスすれば良かったと、本気で後悔した。今までデートと呼ばれる物を一度もした事が無かった。喧嘩に明け暮れて、暴力にどっぷりと漬かった生き方しかして来なかった。そんな俺が、雫に近付く自体が往けない事かも知れない。けれど、雫を求めずには居られなかった。
「……うなぎ。好きです」
好きです、の言葉に一瞬、どきりっ……と、した。思わず、俺も好きです……と、寝惚けた事を口走ってしまう処だった。
雫の表情が、恥ずかしそうに赤らんでいた。
「食い意地の張った女みたいで、恥ずかしい……」
照れた其の顔が、可愛すぎる。此れが世間一般で謂う処の『キュン』と謂う物なのか。成らば、ハッキリと断言できる事が在る。
俺は『キュン』で、死ねる。
「じゃあ、決まりやな。鰻食べに行こう!!」
「本当に、良いんですか?」
尚も遠慮しながら、雫が上目遣いで此方を見る。其の仕草が兎に角、可愛い。月並みだが、目に入れても痛くないと謂うのは、此の事を謂うのだなと思った。
「遠慮なんか、要らん。俺に奢らせろ!!」
ほんの少しだけ、強い口調。けれど、雫は笑顔で頷いた。
「はい……」
「ほな。タクシー、拾おか?」
此処、檀原公園には、タクシーが数台、常に待機している。墓地に囲まれた場所に位置する為、墓参りの帰りにタクシーを利用する老人達が意外に多い。歩いて二分もすれば、乗り場に着く。然(さ)り気無く雫の肩を抱いて、歩き出す。自分でも意図せぬ行為に内心、ドキドキしていた。自分の心臓の音が、驚く程に聴こえてくる。良い大人が女の肩を抱いたぐらいで、何を焦っているのだ。
雫は何も言わないが、嫌がる素振りを見せなかった。恐くて、顔を向けれない。物凄く嫌な顔をしていたら、本気でへこんでしまう。本当に、良い大人が情けない。
柔らかな肩の感触が、艶やかに秘めたる心を撫でる。体に触れる雫の温もりが、男の性(さが)を刺激する。落ち着け俺。嫌われてしまう。雫に求めているのが、其処だけだと思われてしまう。けれど、心だけでは無く体が求めていた。気が早いだろう。と謂うよりも、俺達は未だそんな関係ですらない。一人でそんな葛藤をしていたら、怪訝そうな雫の声が聴こえてきた。
「一輝さん……?」
思わず手を放していた。慌てて顔を向けると、雫がおかしそうに笑った。
「ごめんなさい……。何故だか、一輝さんが可愛く思えて…………男性に、可愛いなんて、失礼ですよね。ごめんなさい」
馬鹿にした素振りは無かった。変わらず優しい眼差しを注ぐ雫が、愛おしくて堪らない。俺は雫を見詰め返していた。込み上げる想いを止めれない。溢れ出す感情を抑えれない。どうしてこんなにも、好きに成ってしまっているのだろう。解らなかった。別に、今はそんな事、どうでも良い。雫をいつまでも、見詰めて居たい。雫が欲しくて、仕方がない。
――雫が好きだ。
其れだけ解っていれば、充分だ。
何が在っても、雫を護ると誓おう。惚れた女を、死ぬ気で護る。男には、其れだけ在れば充分だ。
理由なんて、必要ない。
好きだから、護る。
「一輝さん?」
二度目の問い掛け。
どれ程の時間、見詰めていたのだろうか。そんな事は、どうでも良い。理由なんて要らない。俺は雫が好きだ。
そう思った刹那――後頭部に鈍い衝撃。次いで、何かが砕け散る音。揺れる視界。振(ぶ)れる意識。雫の悲鳴が、何とか意識を保たせた。何が起きたのかを、瞬時に把握しながら、後ろを振り向いた。昨日の男が視界に入った時には、俺は動いていた。振り向きざまに放った右拳が、男の顔面に深く沈み込む。肉と歯の感触。砕けた歯が、拳に突き刺さった時の鋭い熱。男が倒れるよりも速く更に一歩、踏み込んで左の拳を振り降ろした。再度、男の顔面に拳が減り込んだ。地に伏した男は、動かない。
雫を見ると、泣きじゃくっていた。嫌われてしまった。本来の俺を、見られてしまった。哀しみが胸を掻き毟る。
「病院、行こう……」
意外な一言。尚も雫は言葉を続ける。
「一輝さんが、死んじゃったら……嫌だよ!!」
――其処?
泣いてる理由は、其処なのか。嫌われた訳じゃないのか。良かった。て謂うか、意識が朦朧とする。後頭部に手を当てると、ドロリとした血の感触がした。流石に此れは不味い。
雫に肩を借りて、タクシーに乗り込む。
「どないしたんや、いっちゃん? 血塗れやないか!?」
幸運な事に、馴染みの運転手で在った。五十を過ぎたで在ろう其の運転手は、此方を見て驚いていた。車内が血で汚れるのも構わず招き入れてくれた。
「徳ちゃん……迷惑、掛けてしもて、ごめんな。岸和田に在る桜庭記念病院に、行ってくれるか?」
道順を簡単に告げると、運転手は車を走らせた。
俺の隣りで雫が涙を浮かべていた。寄り添う様に、俺の腕に手を置いている。洋服を血で汚してしまったな。哀しませてしまったな。心が哀しみで悲鳴を上げていた。雫の哀しむ顔を見るのが、どうしようもなく辛い。朦朧としながらも、雫を安心させてやろうと微笑んでみせた。
「大丈夫や……此れぐらい、大した事ないで」
「そんな事ない……。血がこんなに、出てるもん。一輝さん全然、大丈夫じゃないよっ!!」
駄々を捏ねる子供の様に泣きじゃくる雫が、堪らなく愛おしくて切なかった。
「一輝さんに何か在ったら、私……」
言葉を噤む雫。俺は何も謂えないでいた。朦朧としながら、気を張って、懸命に意識を保つ。此処でもし気を緩めてしまったら、確実に意識が飛ぶ。そしたら、雫を更に哀しませてしまう事に成る。そんな事、出来る訳が無い。此れ以上、雫を哀しませたり不安にさせて堪るか。絶対に、嫌だ。雫の笑顔を護りたい。雫を護ってやりたかった。其れなのに、泣かせてしまっている。
そんな自分に、腹が立った。
「お嬢さん、差し出がましいかも知れへんけど――其の男は、そんな事で斃(くたば)る様な男やないで。せやろ?」
穏やかな口調で話す徳ちゃんに心底、感謝した。最後の言葉は、俺に向けられた物だ。荒れた呼吸を振り絞りながら、でかい声で応える。
「当たり前や!! こんなモン、屁でもないんじゃ!!」
――絶対に斃って堪るか。俺は、雫を幸せにするんや。だから、死なれへんのや。気合いを入れ直して、雫を見る。子供の様に、驚いた顔をしている。其れが可愛らしくて、堪らなく愛しい。肩を抱き寄せていた。揺れる髪が、鼻を擽る。鼻腔を撫でる甘やかな香りが、心を優しく癒している。
「俺は絶対に、死なへん。約束する。だから此れ以上、泣くな!!」
真っ直ぐに瞳を捉えて力強く謂うと、今迄ずっと強張っていた雫の表情(かお)が緩んだ。
「はい……」
「漸く、笑ってくれたな……」
涙に彩られた雫の笑顔を見て、堪え切れなく成って抱き締めていた。柔らかくて、華奢な温もりが、俺の心を埋め尽くしていく。雫は何も謂わず只、身を委ねていた。
――愛しくて堪らない。昨日、逢ったばかりなのに、言葉を殆ど交わしていないのに、どうしてこんなにも、愛おしいのだろう。
「鰻屋、絶対に行こうな。誕生日のお祝い、絶対にしような……」
雫の温もりを此の儘、いつまでも感じていたかった。心が満たされて、安らいでいく。こんな気持ちに成るのは、生まれて初めての事だった。どうしようもなく、俺は雫の事が好きだ。此の想いは絶対に、曲げられない。だから、どんな事が在っても必ず護り抜いていく。そう、必ずだ。
「うん……ウナギ、食べたいよ。だから、絶対……死なないで。御願いだから……」
震える声。だけど、温かい。崩れる程に、潰れる程に、全部――全部、抱き締めていたい。雫の全てが欲しかった。堪らなく雫を求めてしまう。気持ちが抑えれなく成って、堪らなく愛おしくて成って、言葉が、心が、震るえていた。
「約束する……」
其れだけ応えると、俺達は何も謂わなく成った。只、互いの温もりだけを、分かち合った。
走る車内から、夕闇に染まる街並みを見た。もう既にオレンジ色の光は、影を失い始めていた。
夜の訪れと共に、薄闇が秘めやかに街を包み込む。少しずつ、ゆっくりと闇が濃く成るに連れて、人々の輪郭が優しさを持ち始める。地平線の彼方で、蒼と白と赤の層が闇と重なり合って、次第に其の境界線を失っていく。幾許か時が過ぎて、夜の闇が空を支配した頃には、泣き疲れたのか雫は可愛らしい寝息を立てていた。
本当に愛おしくて、堪らない。何が在っても、必ず護ってみせると――静かに心の中で誓う。
流れる景色。今は未だ貝塚だ。岸和田にはもう後、十分程は掛かるだろうか。桜庭記念病院は、母方の祖父が経営している病院だった。小さくはないが、然程にも大きくない病院の為、多少の自由が利く。俺達の様な食(は)み出し者達には、そう謂う場所は必要だった。そう謂う意味では、祖父は都合が良い。どんな傷害事件で起きた怪我でも、何も追及して来ない。口は悪いが、口は堅かった。
余り世話には成りたくなかったのも事実なのだが此の際、仕方が無かった。
肚を決めて、祖父の助けを借りよう。果てしない睡魔と抗いながら、俺は到着を待った。
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