泉佐野市は大阪と和歌山の県境に位置する場所に在る街で、商業・工業・農業が盛んで在った。又、海に面している事も在り漁業も盛んで在る。大阪の府下に位置する場所に在る。其れなりに人が居て、其れなりに田舎で、其れなりに都会な此の街が、俺は大好きだった。だから俺は唯一、与えられた取り柄の腕っ節で此の街を護りたかった。


 所詮は只のならず者と謂われれば其処までだったが、此の街で起こる暴力沙汰を見過ごす訳には出来なかった。


 深夜の泉佐野駅。既に終電は過ぎていたが、ロータリーの裏通りでは密やかに色んな人間が息衝いていた。居酒屋の前でスマホ片手にサラリーマン風の男が、咥え煙草で此方に手を振っている。


「いっちゃん、おつかれさん!!」


 サラリーマン風の男は此の辺りではゲンちゃんと呼ばれている。いつも仕事帰りに此の居酒屋【佐野屋】で呑んでいる。気風(きっぷ)の良い時は、少し歩いた所に在るヘルス【隠恋慕】でミントちゃんを指名する。どうやらお気に入りらしく、俺に彼女の話をしょっちゅうしていた。未だ三十手前の遊びたい盛りで、独身だった。


 交際している女性(ひと)はいないらしく、他の常連達に良く揶揄(からか)われていた。


「今日も見回りなんか?」


 人懐っこい笑顔を向けるゲンちゃんの左頬に、青痣が出来ていた。喧嘩をする様なタイプでは無い。


「どないしたんや?」


 自分の頬を指しながら、ゲンちゃんに問い掛ける。事と次第に依っては、見過ごす訳には往かない。此の界隈でゲンちゃんに手を出す様な不届きな輩は、存在しない筈だ。俺が此の目を光らせている限り皆、ゲンちゃんに手を出せば俺が動く事を知っている。其れは他の皆にも謂える事だ。仲間内の喧嘩は、余程の事が無い限りは起こり得ない。此の土地の人間は皆、俺は仲間だと思っている。


 だとしたら、余所者で在る可能性が高い。只のならず者ならば、俺の裁量でどうとでも成る。だが此れが別の土地(シマ)を取り仕切る人間達の仕業ならば、衝突は避けられなくなる。


「ちょっと、転んだだけや。心配ない。其れより一杯、引っ掛けてこうや。奢るで!!」


 明らかに嘘だと解ったが、ゲンちゃんのプライドを刺激したくはなかったので、此れ以上の追及はしなかった。俺はスマホを取り出しながら、笑顔を返した。


「ほな、呼ばれよか。つまみも、付けてよ!!」


 普段よりもワントーン、声を上げてそう付け加えながら、手早くスマホを操作する。


『ゲンちゃんが、誰かに殴られた。

 情報、集めて!!』


 舎弟の八代に、メールを送信する。此の土地の不良達は、横の繋がりを何よりも大切にする。仲間の事ならば、我が身を犠牲にする事を厭(いと)わない連中ばかりだ。八代は今頃、自分のツレや後輩達に、メールを一斉送信している頃だろう。其れを受けた連中も又、同じ様に別の仲間達に情報を求め始める。五分も経たずに、数百人の不良に伝達される事に成る。


 居酒屋【佐野屋】の暖簾(のれん)を潜ると、胃袋を刺激する旨そうな匂いがした。焼き鳥の醤油が焦げる芳ばしい薫りやお好み焼きのソースの匂いを嗅いで、食欲を乱暴に揺さぶられた。そう謂えば今日は、朝から煙草と珈琲以外には何も口にしていなかった。


「いらっしゃい、いっちゃん!!」


 カウンター席に座ると大将が、突き出しのブリ大根を出してきた。一般的な居酒屋では、突き出しは料金を取るが、此の店ではサービスとして提供している。客を饗(もてな)す最低限の心遣いだと、依然に大将が語っていた。


「其れとコイツは、特別サービスや!!」


 眼前に置かれたのは、中ジョッキに注がれた生ビール。溢れ出しそうな泡が、未だか未だかと謂わんばかりに誘っている。


「おおきに。ほな、呼ばれるで!!」


 礼を述べると、一息にビールを煽った。清涼な喉越しが、心地良く染み渡る。


「相変わらず、良い飲みっぷりやな!!」


 大将の声が弾んでいる。


「大将、いっちゃんにもう一杯、出してやって。俺からの奢りや。其れと適当につまみ頂戴。……っあ、出来たら粉モンが良ぇなぁ。紅ショウガ、たっぷりの奴な!!」


「適当にって謂う時ながら、注文の多い奴っちゃなぁ。ほな、焼きそばで良ぇか?」


「うん、其れで良ぇで。半熟の目玉焼きも乗っけてな!!」


 今日のゲンちゃんは、珍しく饒舌だった。何か在ったのを察したのか大将は、ハイハイと面倒臭そうに奥の厨房に引っ込んだ。いつもの大将に文句を付けよう物なら「じゃかぁしいんじゃ、ボケがっ!!」と、怒鳴られている。以前に一見さんの客が妙な注文ばかりした時に、ボロカスに怒られた挙げ句に店を追い出されていた。常連の客は大将の気性の粗さを知っている為、其の辺は確りと弁(わきま)えてる。其れは、ゲンちゃんも同じだった。


「そう謂えば、いっちゃん。組の方には最近、顔出してるんか?」


 ブリ大根に箸を伸ばしながら、ゲンちゃんが此方を見る。シガレットケースから煙草を取り出しながら、表情を強張らせる。


「行ってへんよ。彼処(あそこ)には義理は在るけど、俺はヤクザとちゃうからな。そないに、しょっちゅう顔ださん」


 大阪全土を取り仕切る程の勢力を誇る斗神會。構成員の数はそう多くはないが、其の系列組織の数は多い。幾つも枝分かれしてはいるが、傘下組織の数も入れれば、五千人もの人間が斗神會の為に動く程の力を有している。其処に俺は中学二年の頃から、出入りする様に成っていた。


 死んだと思っていた筈の父親が、斗神會のトップだからだ。名は嵐山権蔵(あらしやまごんぞう)と謂った。俺の桜庭の姓は母方の物だ。其の母親も随分前に他界している。


「親父さん、心配しとったぞ。偶には顔、見せてやらんと」


 あの親父が心配なんてする筈が無い。此処数年、顔を合わせても碌(ろく)に口も聞かない状態が続いている。親父が可愛いのは兄の晃(あきら)の方だ。晃はバリバリのヤクザとして、斗神會に貢献している。其れに引き換え俺は中途半端な喧嘩師として、暴力に頼った生き方をしている。


 不意に昼間に出逢った雫の顔が浮かんで、切ない気持ちが込み上げた。雫が俺の事を知ったら、きっと嫌いに成ってしまう。其の事が無性に悲しかった。


 そんな想いを呑み込む様に、二杯目のビールを煽った。清々しい迄に清らかな喉越しに、思わず息を吐いていた。


 ――其れにしても。本当に綺麗な歌声だったな。


 脳裏に彼女の優しい旋律が蘇っていた。隣りでゲンちゃんが何かを話していたが、殆ど耳に入っていなかった。雫の美しい髪。柔らかそうな……ぷくり、と膨らんだ唇。温かで優しげな潤いを含んだ瞳。丸みを帯びた華奢な身体の輪郭。其の全てが愛おしくて、切なくて、溜め息が漏れていた。


 初めての一目惚れ。初めてのべた惚れ。どうして、こんなにも気に成るのだろうか。解らなかった。苦しかった。切なさに胸が締め付けられて、息をするのも苦しかった。けれど……どうしてなのか、其れが不思議と心地良くも感じられた。優しい切なさが、何故だか温かく心を包み込んでいた。初めての出逢いから、未だ幾許も経っていないのに、こんなにも魅せられていた。心が惹き附けられていた。


 煙草に火を附けると、肺に煙りを送り込んだ。細長い紫煙が立ち上る先を眺めていると、メールの着信音が鳴った。八代からだ。



『神江芳樹(じんえよしき)。

 何処にも所属して居ない半グレ。

 現在、詳細は調査中です。

 お疲れ様です!!        』


 相変わらず仕事の早い奴やな。気付けば、センチメンタルな妄想から醒めていた。ゲンちゃんは相も変わらず饒舌だった。赤ら顔で茹蛸みたいに成っている。


「はい、おまっとうさん!!」


 大将が二人分の焼きそばを持って戻ってきた。鼻腔を擽るソースと鰹節の薫りが、食欲を刺激してきて、腹が鳴った。


 ――腹が減っていた。


「待ってたで、大将っ!!」


 ゲンちゃんが上機嫌で、焼きそばに手を附ける。鉄板の上で、ソースが歌っている。俺も半ば乱暴に煙草を灰皿に捻じ曲げると、焼きそばに箸を付けた。


 ボリューム満点の焼きそばは、まるで山の様で在った。其の頭頂部に鎮座する半熟の目玉焼き。目玉の部分を箸で割くと、とろっとろの黄身が流れだした。麺に絡み付く其れを口いっぱいに、放り込んだ。鰹節の風味がソースと相まって、紅ショウガの薫りが後を追う。卵の黄身が其れ等を優しく包み込んでいく。口内で濃厚な味のオーケストラが響き渡っていく。気が付くと俺は、一心不乱に箸を進めていた。箸が止まらない。空腹も在ったが、大将の作る焼きそばは純粋に滅茶苦茶、旨い。


「二人共、良い喰いっぷりやな。確り喰えよ!!」


 何時の間にか紫煙を燻らせた大将が、満足そうな視線を投げ掛ける。


 鉄板が空に成るのに、そう時間は掛からなかった。

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