卒業
81monster
序章【桜色の歌】
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始まりの季節は、温かな旋律と共にやって来た。
風に舞う歌声が戯(たわむ)れる様に、桜の花弁(はなびら)達と踊っていた。鮮やかに彩られた空が、青く輝いている。優しい光に満ち溢れる様にして、俺の心に澄んだ歌声が沁み込んで魅了していた。
爽やかな薫りが鼻腔を擽っている。脳裏には何故か、幼い頃の辛い過去が浮かび上がっていた。
七つ上の兄からの虐待。撃ち附けられる堅い拳の感触が、兄から発せられる醜悪な悪意が、幼い俺の心を蝕んでいた。疾(と)うの昔に忘れ去っていた記憶が、何故だか知らないが胸を掠めている。
そんな事を知る由も無く彼女は独り桜を見上げて只、歌っていた。美しい其の容姿は、見る者の心を甘やかに惑わせて魅入らせる。華奢な身体のラインは女性らしい柔らかさを想起させて、不意に護りたいだとか、抱き締めたいと謂(い)う欲求を呼び起こさせる。肩甲骨まで掛かる長い髪が嫋(しな)やかに、風に戦(そよ)いでいる。唐突に込み上げる其の感情に驚きながら、俺は彼女を只々、一向(ひたすら)に見詰め続けていた。
何処か哀しそうに、寂しそうに、彼女は歌っていた。憂いを帯びた歌声が、澄みながら春の空気を震わせていく。
いつまでも、いつまでも、彼女の歌声に聞き入って居たかった。
「姉ちゃん、I's(アイズ)のsihomiやないん?」
不逞にも下卑た笑みを張り付けた筋肉質の男が、彼女の歌を遮っていた。不貞で不純な動機で、声を掛けた事には間違いない。其の証拠に男の股間は、淫猥に膨らんでいる。俺の胸を掻き毟る様に、怒りの渦を巻く様に、殺意の蛇が蠢いた。
「違います。人違いです……」
不謹慎、極まりない事だが、戸惑った声が美しくて愛おしい。生まれて初めての一目惚れ。べた惚れ――と謂う奴だろうか。早鐘を打つ鼓動を抑えながら、彼女の元へと駆け寄る。
「嘘つけ。其の声聴いたら、本物やって解る。不倫して芸能界、追放されたんやろ?」
反吐が出る程に心無い男の言葉に、怒りが沸点にまで登るのを堪えながら男の肩を叩いた。
「何や、お前は?」
鬱陶しそうに振り向く男の顔に、思いっ切り拳を叩き込んでやった。拳に伝わる鈍い熱と骨の感触。頬骨に亀裂が入るのが、拳を通して理解(わか)った。激しく後方に吹き飛ぶのを見届ける。ちゃんと理性を抑えれた事に、僅かばかり安堵した。普段の俺ならば、追い打ちで男の顔面に踵の雨を降らせていただろう。きっとそんな事をしていたら、彼女は悲鳴を上げて軽蔑と恐怖に染まる眼差しを向けていただろう。否、下手をしたら既に、嫌われてしまっているかも知れない。野蛮で粗野な男だと思われているかも知れない。暴力に頼ってしまった事を、猛烈に後悔しながら、彼女に向き直る。
「大丈夫ですか……?」
極力、穏やかな声音で在る様に努めていたが、緊張の余りに声が上擦ってしまっていた。
――ドキドキが止まらない。柄にも無く、止められない。此れが恋と謂うの成らば、恥ずかしい事に初恋だ。
「あの……」
何故か彼女の瞳が潤んでいた。吸い込まれる様に綺麗で、心が更に逸(はや)った。
一瞬の間。永遠にも近い沈黙を感じて、平常心では居られなかった。
柔らかそうな彼女の唇を見詰めていると、ゆっくりと彼女が口を開いた。
「助けてくれて……ありがとうございます」
優しい声音が風を運ぶように、桜の花弁が舞った。向けられた彼女の花の様な笑顔に、心が躍った。
似合いもしない癖に俺は、はにかんでいた。気絶している男を見遣る。
「あの……。宜しければ、安全な場所まで送りましょうか?」
小さな子供の様な勇気を振り絞って、彼女を誘ってみた。甘く淡い妄想が、頭の中を埋め尽くしていく。
「大丈夫ですよ……。お気遣いしないで下さい!!」
遠慮がちに――然(しか)し、確(しっか)りと、彼女は申し出を断った。
其の瞳が余りにも真っ直ぐに此方を捉えていて、心が騒(ざわ)附いて落ち着かない。寂しい気持ちが心を掻き毟る。胸が締め付けられる様な息苦しさを感じて、僅かに視線を落とす。
どうにかして、彼女と関わりを持ちたいと謂う邪(よこしま)な感情が、俺を内側から焼き尽くしていく気がして、切なく成る。彼女と繋がりたかった。彼女に近付きたかった。
普段の自分なら、迷わず連絡先を聞けていたのに、何故だか出来なかった。嫌われるのが怖かったのかも知れない。だけど、彼女を求めている。初対面なのに、逢ったばかりなのに俺は、彼女に惹かれていた。不思議な此の感情に戸惑いながらも、彼女に視線を送る。憂いを帯びた優しい微笑を浮かべて、此方に視線を向けていて、愛おしさが加速していった。どうしてこんなにも、惹かれているのだろう。桜の花弁達が風に誘われて踊る様に、彼女と俺を包み込んでいる。
色鮮やかに視界を彩る花弁達が、彼女への感情を艶やかに縁取るかの様に笑っているのかも知れない。
「明日も又、逢えませんか?」
唐突な彼女の申し出。不意に心が躍る。舞い踊る花弁達に喜びの色が附いた。
「私は……此の時間に、此処に居ます。いつまでも、此処に居ます。だから、待ってます…………初対面なのに私、変ですよね?」
伏せられた瞳は一体、何を見ているのだろうか。哀しいけれど、解らない。
彼女を抱き締めたかった。けれど、叶わない。傾き掛けた陽射しが、ゆっくりと朱に染まろうとしている。視界の隅で子供たちが家路に着きながら、笑い声を上げていた。行き交う自動車の風を切る音。桜の枝で羽根を休める鳥の囀(さえず)る声。其の全てが新鮮に感じられて、切なく成った。堪らなく彼女が愛おしく成った。
――彼女と俺の声が、重なった。
「ごめんなさい……」
「明日も来るよ」
驚いた様な彼女の顔が、可愛らしかった。自然と零れる笑みに、彼女の笑い声が重なった。
「ありがとうございます。楽しみに、御待ちしてますね?」
楽しそうに笑った彼女の笑顔は、桜よりも美しかった。そして何よりも、嬉しかった。明日も彼女に逢えるんだと思うと、心が舞い上がってしまう。
「絶対、明日も来るからな!!」
自然と口を附いて出る言葉。彼女の優しい笑い声が、心地良く心を撫でた。
「もう、こんな時間!! ごめんなさい。仕事の時間なので、失礼しますね…………あ、其の前に!!」
慌てて立ち去ろうとする彼女が突然、振り向いた。其の表情が爛漫と輝き過ぎて、俺には眩しかった。
「私の名前は姫咲雫(ひめさきしずく)。貴方の名前も教えて下さい!!」
大した距離では無かったが、彼女は叫びながら問い掛けて来た。其の声が矢張り澄んでいて、心地良く心を優しく撫でてくれていた。周囲を行き交う人達が、此方に視線を集めていた。彼女はそんな事には、これっぽちも気にしていない様子で俺の事を見てくれていた。滅茶苦茶、嬉しかった。だから、俺も周りなんて気にしないで、叫びながら応えてやった。
「俺は桜庭一輝や!! 格好良い名前やろ?」
満開の桜色の笑顔で、彼女は叫び返して来た。
「はい!! めちゃくちゃ、カッコイイですっ!!」
「ありがとう!! 仕事、頑張ってなぁ!!」
誇らしげに笑い返して、拳を天高く挙げてやった。
「ありがとうございますっ!!」
彼女も同じ様に、拳を高く挙げて笑い返していた。だらしなく緩もうとする顔の筋肉に激を飛ばしながら、俺は彼女に手を振った。深々と一礼すると、彼女は背を向けて歩き始めた。彼女の姿が見えなく成るまで、俺は手を振り続けた。桜の木を見詰めながら、彼女を想うと、自然と優しい気持ちに成って、笑顔が零れ落ちた。
愉しい気持ちが、恋心を彩って、此れでもかと謂わん許(ばか)りに舞い上がってしまう。彼女を想うだけで、幸せな気持ちに成れた。
「さて……」
一呼吸を入れて、倒れる男に向き直る。
「おい、起きろ――」
自分でも驚く程に冷淡な声音。先程まで彼女に発していた口調からは想像も附かぬ程に、無機質で冷ややかな自分自身の声に、吐き気がした。男の肩を爪先で軽く小突くと、男は気怠そうに目を覚ました。其の刹那、男の腹を蹴り飛ばしていた。
こんな姿、彼女には見せられない。俺の生業を彼女が知ったら、きっと哀しみと共に幻滅して、失望して、俺の元を離れてしまう。其の事が厭(いや)に成る程に哀しかった。
そんな辛い気持ちを振り払う様にして、踞(しゃが)み込んで、苦しそうに息を吐いて藻掻(もが)く男の髪を掴み上げて吐き出した。
「此の街は、斗神會(とうじんかい)の縄張(シマ)や!! 次、しょうもない事してるの見掛けたら、殺すぞ。理解(わか)ったな?」
ドスの利いた声音で、怯えた表情の男に問い詰める。
無言で只、頷く男。
二度、三度と小刻みに動くのを確認すると、念を押す様に続けた。
「此の辺を、二度と彷徨(うろつ)くな。次、此処で見掛けたら、ホンマに容赦せぇへんからな!!」
男の髪を掴む手を乱暴に、力一杯に地に叩き衝ける。ぶち、ぶちぃっ――とした音が聞こえそうな感触と共に、強い衝撃が手全体に伝わる。
ゆっくりと立ち上がると、スーツのポケットから、エルメスのシガレットケースを取り出す。パーラメントを一本、取り出すと火を附ける。口内に広がる重厚なメンソールの薫り。肺一杯に煙りを送り込むと、一息に吐き捨てた。
一拍、置いて――。
もう一度、男の腹を蹴り衝ける。爪先が男の鳩尾を確りと捉えていた。吐瀉物を撒き散らしながら、男は激しく身悶える。此れぐらいして置かなければ、此の土地の男達に嘗められてしまう。徹底的に叩きのめして置かなければ、復讐心が芽生えてしまう。此奴(こいつ)とは、二度と関わりたくない。そう思わせて置かなければ成らない。
「理解(わか)ったら、とっとと去(い)なんかい、ボケがッ!!」
怒号に圧される様にして、男は無様に嘔吐しながら逃げ去って行った。其の背中を見届けながら、虚しさに苛まれた。彼女の事を想って切なさに襲われた。
桜の花弁に包まれて、愛しさが込み上げていた。
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