フラッシュバック ドロップアウト

 悪夢は時としてフローラルブーケの香りである。

「ひぇーず、久しぶり」

 五年前に失踪したと噂されていた友人が、あんまりくだけた調子で現れたので、日吉津さんは手に持っていた柔軟剤を思わず取りこぼした。慌ててしゃがんで拾い上げる。どうやら壊れたりはしていないみたい。

 よかった。もし液漏れなんてしていたら、一つだけでいいのに全部買い取りになってしまうところだった。信じがたい出来事から都合よく思考が逸れていくのに気付いた彼女は、気の抜けた声で大丈夫?と言いながら、けろりひょろりと立っている女を見つめた。

 姿勢の良いモデル体型を包むはじけそうな肌。猫っ毛のショートヘアに見え隠れするぱっちり大きな目。純日本人であることを頻繁に疑われるほどに、それらすべての色素は薄い。クラスの誰もが憧れた美貌の持ち主、梶川めじろだ。

「……梶川めじろ?」

 まるで芸能人に出会った時のように、日吉津さんはぽかんと、うわ言みたく呟いた。

「そう!……覚えててくれたんだぁ。忘れられちゃったかと思った!」

 梶川めじろは無邪気に両手を広げる。平日昼間の閑散としたホームセンターの通路で、風を全身で受け止めるかの如く、あるいは道をふさぐように。立っているだけでも絵になる女だ。安っぽい蛍光灯ですら彼女の上ではステージライト。店内に流れる流行のオルタナティヴロックに乗って、ミュージックビデオのワンシーンみたく、茶色い髪がちらちら光って揺れる。無重力。

「暇だったら、とりあえず、お茶でもしない?」


 〇


 汚れた朝の匂いだ。布団から這い出して、学校へ行かなくちゃ。

 重たい頭を無理やり起こして、乱れた猫っ毛を手で漉いた。

 リビングで眠る父を起こさないようは彼女はずっと忍び足だ。床に散らばるビニール袋に足を取られぬよう、無数のペットボトルを倒さぬよう、手足の端まで神経をとがらせて、ゴミの平原を通り抜けていく。カーテンを閉め切った部屋の中で、冷蔵庫の中だけが煌煌と明るい。物は一杯に詰まっていても、まともなものはほとんどなさそうだ。腐ったニンジンが液体となって、野菜室に溜池を作っている。

「うぇ」

 腐臭が脳を揺らして、神経がドアを閉じさせた。宙返りしたがる三半規管をどうにか抑えて、めじろは冷蔵庫から離れる。例の如く空のペットボトルや酒瓶や、いろいろのゴミに埋もれたテーブルの上に菓子パンを見つけた。右手で抓み上げると袋の隅にピンク色の汁が流れて溜まる。これは食べられそうにないや。

 食事は諦めて洗面所に忍び込む。顔を洗って、髪を梳かして、化粧水をはたく。溶けた砂糖のような乳液が手の上でまろやかに光を封じている。ちょっと出しすぎだ。首元まで伸ばして、それでも残った分は腕にこすりつけた。

 最後の仕上げに、出て行った母の残した香水を何度か吹いて、見えない花で彼女は武装する。制服に移った部屋の匂いが消えてくれればそれでいい。汚れた部屋に場違いな透明なガラス瓶は、さながら額縁が如く薄紫の液体を内に揺蕩わせている。もう随分香水瓶は軽くなってしまって、一吹きするだけでは空気が押し出されるばかりである。替えの香水も消臭スプレーもない。これがなくなったらどうしよう。歯磨き粉でも塗りたくろうかしら。それは、完全無欠の梶川めじろには似合わない。

 玄関扉を開けたらあの厄介な父はいない。東の空に目が焼かれて、立ち眩みしそうな朝だった。

 

 〇


「海風が気持ちいいね!ひぇーず、いつの間に免許取ったの?」

「高校卒業してすぐ。田舎は免許なきゃやってらんないから」

 黄色い軽自動車は旧道を走っていく。白いガードレールと海のコントラストが眩しい。ドラッグストアを出た二人は、海沿いの喫茶店を目的地に束の間のドライブを楽しんでいる。開け放した窓から吹き込む海風は梶川めじろの肌を撫でて、その香りを運転席へ寄越した。ラベンダーとローズの混じった、ともかく花の香りだ。

「車は?買ったの?思い切った色にしたね」

「お母さんのおさがり。昔見たことなかったっけ?」

 中学に通っていたころに、何度か学校に迎えに来た母の車が目立って恥ずかしかったのを思い出す。あの頃は確か納車したてで、今よりもっと眩しい玩具の様な黄色をしていた。

「そうだったっけ?忘れちゃった」

 道路を挟んで海と反対側には、植物に埋もれて線路が走っている。平面ではなく立体に、小さな壁のようになって繁茂しているのは、おそらく立ち入り防止の柵のせいであろうと思う。植物があまりに濃密に生い茂っているせいで、それが金属のフェンスなのか、煉瓦を積んだ垣か、木の柵かはわからない。小さな緑の壁は海岸線と平行にずっと続いていて、美しく代り映えのない景色を演出していた。

「でも、そっか〜、ひぇーずは大人になっちまいましたか」

「大人って、そんな、ただ歳とっちゃっただけだよ」

 いつまでも若々しい見た目をしているくせに、悟ったように一人納得する梶川めじろの様子を見て、どこか風変わりな安堵を感じた。中学生の頃に戻ったような親しみと、互いが変わってしまった事実との間に板挟みになって、それでも尚安堵していたのだ。

「三つ編みだって切っちゃって」

「だって、さすがにあの三つ編みは子供っぽ過ぎるでしょ?年相応にしなきゃ」

「年相応ね〜。私はひぇーずの三つ編み、好きだったんだけどなぁ。いかにも真面目ちゃんで〜すって感じで」

「それ、褒めてる?」

「褒めてるよ」

 梶川めじろはきっとカモメを見つめている。窓の外を向いてるから表情は読めないが、声調子から揶揄っているわけではないことが分かる。

 左のカーブミラーには黄色の車体と灰色の道路だけが映っている。後続車も対向車もいないのは、きっとどの自動車も最近できた新道を走っているからだろう。あっちの道は早くて路面も広く綺麗。でも海は見えないし、道沿いの広告が目障りで、何より風情がない。そういうわけで時間を贅沢に使う時は旧道を通ると決めていた。

 そもそも海沿いの喫茶店に行くには、新道はかえって遠回りだから、選択の余地はないのだけれど。

 

 〇


 大寒目前一月の教室はまだ寒い。昼休憩、少女達はストーブを囲んでおしゃべりに興じている。学校に行けば、めじろは少し特別な人間だった。見てくれの良さから多少の嫉妬はあったが、来るものも去るものも邪険に取り扱わないため、周りに人が絶えなかった。その実無意識の八方美人であったから、多少の不都合も習慣的に笑って許すばかりであった。少女達は教師に内緒でお菓子を持ってくる方法だとか、受験勉強がどうのとか、誰がかっこいいだのなんだのと、酷く退屈な世間話を石油ストーブの火の中に吐き散らして、何が楽しいのか一つもわからない。

「次の授業、なんだっけ」

 世間話が一旦中断されて、合言葉の如く”数学!”と合唱して言う。それから一寸も待たずに話が再開された。少しだけ鬱陶しい。

「あ、筆箱忘れた」

 昼前の移動教室で忘れてきたに違いない。これはいい口実ができた。事実だから仕様がないもの。”ちょっと行ってくるね”と、ストーブのそばを離れると、制服の隙間を縫って冷気が肌にまとわりついて来る。背後からおっちょこちょいだの、抜けてるだの、なじる意図の抜け落ちた悪口が聞こえてくるので、曖昧に笑って教室を出た。

 結露した窓に小指で線を引きながら、視聴覚室を目指して凍える廊下を歩く。階段の縁の銀色だけを蹴って、4階の隅っこ。視聴覚室。

 昼前の授業のぬくもりがまだ残っているのか、視聴覚室の中では白い息が吐けない。筆箱は机の上にすぐに見つかった。つけた覚えのない電気を消そうとして足を踏み出した瞬間、視界の隅に人影を見た。

「昼休み、いっつもいないと思ったら、こんなとこにいたんだ」

 日吉津涼子を教室で見かけることは少ない。彼女もまた別の意味で少し特別な人間だった。日吉津涼子に対する一般的な意見は、堅過ぎ、真面目ちゃん、本ばっか読んでる変人といったおよそ不名誉なものばかりであった。目に見えていじめられているわけではないけれど、誰も積極的に話しかけようとはしなかった。

 同時に、日吉津涼子も、プリントの回収だとか、授業中の話し合いだとか、極めて事務的なこと以外でめじろに話しかけることは滅多になかった。その様子は世間でもてはやされた流行りものに対する逆行性と似た一種の孤高であった。

「……梶川めじろ?」

 日吉津涼子は分厚い本から白い顔を上げて、疑問たっぷりに名を呼んだ。

「ごめん、メーワクだった?」

「そんなこと言ってないじゃん」

 向かいの椅子に腰かけると、彼女はにわかに目を見開いた。もとより少し低めの声で放送されるそっけない返事は、ひょっとすると気分を害させたのではないかと不安にさせる。

「怒ってる?」

「怒ってない」

「ほんとに?」

「怒ってないっていってるでしょ?」

「そっか……」

「怒ってない人に何回もしつこく怒ってる?って聞いたら、最初は怒る気がなくったってちょっとむかつくから、それ、やめた方がいいよ」

 やはりそっけなく言って、日吉津涼子は再び本に目を戻した。なんだか新鮮だ。言葉選びははるかにぶっきらぼうなのにも関わらず、教室の少女たちの軽口に対して全く悪意を感じさせない。そこには自らの意見を伝える意図だけが含まれているかのようだった。

「……なるほど。なんかすっごく腑に落ちた!」

「そっか。よかったね」

 光の入らぬよう、重たいカーテンの閉まった視聴覚室が暖かいのが、4限の名残ではなく、今も暖房が入っているためであるのに気が付いた。暖かい風が頬を滑って、水分を奪って逃げていく。直接風に当たるのを嫌がって、机に伏せためじろが上目で見ると、丁度日吉津涼子と目が合った。

「日吉津さんって、昼休憩、いっつもここに居るの?」

「うん。教室より静かだから」

「確かにね。いいなぁ、私も、もっと早く昼休憩にここが開いてるって知っとくべきだった」

「開いてないよ」

「え?じゃあどうやって入ってんの?」

 一瞬の無言があって、日吉津涼子は制服のポケットを徐に弄った。ささくれた指先で銀色の塊が引っ張りだされて、それはかちゃりと音を立ててめじろの目の前に置かれる。

「こっそり合鍵作ったの。職員室と図書室以外でエアコンあるのここだけだから」

 ”内緒だからね”、言わずとも釘を刺すような眼に見据えられ、鋭い目線に対する恐怖のせいでなく、日吉津涼子の不良行為に対する驚きで、心臓はにわかに早鐘を打ち始め

「……なぁんだ、全然真面目じゃないじゃん」

「みんな勝手に思ってるだけだもの。私は真面目です。なんて言った覚えもないし」

 呆然と丸い目をするのはやめたものの、日吉津涼子の、世の真面目さという概念が体を成したかのような風貌にそぐわぬ不真面目な行動は、今だ彼女の中で衝撃的な物事として響いていた。校則遵守の前髪に、両肩に垂れ下がる三つ編み、膝下丈のスカートと無機質な表情が、こんな思い切った行動を包んでいるとは露も思うまい。どうしようもなく日吉津涼子に興味が湧いて、みっともなく質問攻めにしたい。暖房の風向きが変わって、机に伏せた顔に再び風がぶつかり始めた。

「ねぇ、私も明日からここ来て良い?」

「……嫌だ。梶川さんがきたら、どうせ取り巻きも一緒に来てうるさくなるじゃない」

「私だけしか来ないし、絶対あの子たちには喋んないから」

「信用できない」

「お願いお願いお願いお願い」

 めじろは染み付いた習慣で以って上目で強請った。日吉津涼子は唇を固く結び、静かに視線を揺らしている。二人黙って視聴覚室の埃臭い空気を吸い込み、酸素は静かな緊張に置き換わった。密室に沈殿する静寂を破って、先に声を発したのはめじろである。

「……あ~あ、日吉津さんがこっそり合鍵作って忍び込んで、その上勝手にエアコン使ってるなんて、知らなかったなぁ~!!先生に教えてあげよっかなぁ~!!」

「ちょっと!!……あぁ、不覚だったわ……」

 可愛げのある威嚇に対し、日吉津涼子は後悔たっぷりに呟いた。まさかめじろが鍵の複製を手札に、上手に立ち回るとは思いもしなかったのだろう。

「ねぇ、私も明日からここにきてい~い?」

「……わかった。でも、その代わり絶対一人だけで来てよね。あと、私がここに居るってことも、ここが開いてるってことも、秘密にして絶対言わないで」

 渋々了承した日吉津涼子の顰め面に対し、めじろはニンマリ笑って、彼女の眉間の皺を人差し指で伸ばした。


 〇


 体感で1時間ほど経った気がする。褪せた黄色の自動車は、二階建ての白いカフェに到着した。

「とうちゃーく!!」

 梶川めじろが勢いよくドアを閉める。それを眺めながらそっとドアを閉じると、半ドアになったので、日吉津さんも真似して勢いよくドアを閉じる。振動が車体を大きく揺らして、ミラーに引っかかった交通安全のお守りがぷらぷらとその余韻を受け継いでいる。

「この喫茶店、まーだあったんだ」

「ううん、1回閉店して売りに出てて、それから別の人が買ってまたカフェを始めたんだって。リニューアルオープン?って言うのかな。でもケーキが美味しいって評判なんだよ」

「ふ〜ん、店主もリニューアルしたってわけね。ここの苺のパンケーキ、最悪だったもん。そりゃ潰れるわ」

 まだ新品同様の輝きを放つドアノブを下に押し込んで喫茶店の門をくぐる。外装同様、白を貴重とした店内には、飲食スペースと小洒落たアンティークの雑貨やらの販売スペースが共存している。さすがケーキが美味しい喫茶店と言われるだけあって、冷蔵ケースはケーキ屋に引けを取らない大きさをしていた。中にはタルト、モンブラン、チーズケーキ、ガトーショコラ、等々と、様々な色形をしたケーキが美しく連なっている。磨かれたケースの表面にお構いなしに触れて、梶川めじろはケーキとにらめっこを始めた。照明を受けてシュガーコーティングはてらてらと、星形に絞り出されて並ぶクリームは陰影深く、着飾るように輝いた。

「どれにしよう?」

「私はねぇ、いちご使ってるやつ」

「リベンジだ」

「そう、最悪だったんだから。これっ、私これね」

 ショーケースの端に追いやられたショートケーキを指さしてあどけなく笑う。店員に頼んでショートケーキを2つ包んでもらい、別にコーヒー一杯をテイクアウトして車に戻った。

「しまった、箱、一個だけなのか」

「ひぇーず先食べちゃいなよ、私は後でいいもん」

「……それじゃ、お言葉に甘えまして」

「召し上がれ」

「もっと景色の良いところで食べます」

「あっ、フェイントかけたね」

 ”あはは”と無邪気な笑い声を載せて、菜の花色の車は発進する。山向こうの岬を目的地に設定し、ひたすらまた海沿いの旧道を走るばかりである。助手席に乗せたケーキボックスが何かの拍子に落ちないか心配で少し気が散った。


 〇


「ひぇーずはさぁ、なんで三つ編みなの?作戦?」

「どうしたの?突然」

 あれから一週間ほどたって、めじろにとって、視聴覚室での密会はもはや日常となり始めていた。日常と言っても、教室で集まるいつものグループとの世間話とは種類が違う。興味の絶えない存在と秘密を共有している未知数の喜びは決して彼女を退屈させなかった。同時に始めの頃は張りのないぶっきらぼうな声音で話し、突慳貪な素振りが常であった日吉津涼子とも随分仲良くなったと、確かな実感を感じていた。 

「いかにも真面目ちゃんで~っすって感じじゃん。もしかして、それで先生をだましてたり?」

「そういうわけでもないけど……そんなに真面目に見える?」

「見えるって。私も真似しよっかな」

「いいんじゃない?真面目ちゃんになれるよ」

「なれるかな?ナイシンテンあがるかも」

 冗談めかして腰まである髪を結う。あんた下手ね。猫っ毛だからしょうがないのよ、鏡だってないし。彼女の不器用さにしびれを切らして、横手から日吉津涼子が細い紙に触れた。見る見るうちに糸の様な髪の毛が束になって、きれいに編みこまれて、当然だ、日吉津涼子は毎日自らの髪を結っているのだから。

 飾りも何もない、ただ二本の三つ編みに結っただけのおさげ髪になっためじろは、くるくるとターンしてみせる。空気を含んだスカートがふわりと舞って、一瞬、重力と縁を切ったかのようにみえた。

「あっはははは、似合う似合う。かわいいね」

 開いていたカーテンの隙間から差し込んだ光が、一緒になって舞った埃をきらきらと光らせていた。

 彼女がおさげ髪を振り振り家へ帰ると、父が珍しくおかえりと言う。湿気を含んで、重く沈殿するようなその声が鼓膜を通過した途端、めじろはおびただしい数の神経が強張ったのを感じた。たった四つの音の中に、父の不機嫌がにじみ出ている。今日も母に連絡がつかなかったのか、それとも賭けに失敗したのか、もしかすると特に理由もなく不機嫌なのかもしれない。テーブルの上に空の酒瓶が、悪臭の内訳にアルコール臭が増えている。お金をお掛けて酒を飲んでまで不機嫌になるのは救えない。

「ただいま、父さん」

 今すべきことは、不機嫌のはけ口が己に向かぬよう細心の注意を払うことだった。下手に刺激さえしなければ、束の間の安寧とやらは時間回復、時の流れが解決してくれる。冷静に最適解を考える頭脳と裏腹に、震えた語尾を父は敏感に感じ取ったようだった。

 罵詈雑言八つ当たり、逃げ込め洗面所、鍵があるのはそこかトイレぐらいだ。こうなった父はもう手に負えない。人にもモノにもあたり散らして、そうだいけない、香水瓶だけは割られないようにしなきゃ。汚れた部屋の中、一切の汚れと別離した透明な瓶を乱暴に両手に包んだ背後からがちゃり物音。三つ編み掴まれ、後ろに転び、右手、ハサミ、あらやーね、髪は女の命だって、そりゃもう昔から言うじゃないの。

 薄紫の液体が胸元を這って、床に広がり色を失う。甘い花の香が部屋を占拠した。


 〇


 車内でケーキを食べるというのは、なかなかどうして新鮮だ。ハンバーガーやサンドイッチの様な、片手で食べられるものはいさ知らず、コンビニで貰うのと同じ、チープなプラスティックのスプーンで優雅に頂いている愉快な違和感に笑いがこみあげて来る。

「食べにくいでしょ、それ」

 梶川めじろが助手席からのぞき込んで言う。

「そりゃね。でも、手づかみで食べる勇気はない」

 車を走らせているうちに温くなったコーヒーを飲むと、喉にへばりついた生クリームが解けて、甘さと苦さが一緒くたに流し込まれた。岬の近くのパーキングは釣り人向けに市が管理しているもので、長く止めていても代金は取られない。かといって、平日、その上アウトドアのオフシーズンとだけあって、他に止まっている車は一台もない。貸し切りだった。

 駐車場は高台に位置していて、フロントガラスの額縁の中には、呆れるぐらい青が続いている。空と海の境は地平線と呼ぶのだろうか。遥か上空、視認できない雲海の上に流れる気流はどちらへ吹いているのだろう。地上では轟々と風が吹き、隔てのない駐車場いっぱいに詰まって、波のように車体を揺らすのであった。

 エンジンキーを回すと、乾燥した風を吐き続けていたエアコンが徐々に生気を失った。動物が死に絶える時と同じように、触れると曖昧な暖かさが羽に残っている。

「そろそろ行こっか」

「うん」

 真っ白なケーキと黒いコーヒーを片づけて、日吉津さんはまだ一つ入ったままのケーキボックスを閉じた。持ち手の真ん中を掴んで持ち上げると、片方食べてしまったせいで崩れた均衡が箱を斜めにした。しまった、と、持ち手から手を離す代わりに箱の底に手を添えて、もう片手で助手席の花束を掴む。快晴とは言え1月だ。寒風吹き荒れる車外に出るために小さな覚悟を決めて、彼女はドアレバーを引いた。


 〇


 翌日、めじろは少し気がヘンだった。歯車が噛み合っていないように、どこか欠陥があることを自認していながら、それを正そうという思いは露ほども浮かばぬ、放心状態のおかしさだった。服に染み入った花の匂いで酔いそうだ。

 昼休みは視聴覚室。無意識に動く足はさながらパブロフ犬だ。日吉津涼子は今日もカーテンを締切った薄ら暗い隅っこで本を読んで待っていた。

「あ、めじろ。髪、切ったんだ」

「……うん、切られちゃった。折角結ってくれたのに」

 感情がもぬけの殻になったように、めじろは特に涙を流すわけでもなく淡々と残念がった。日吉津涼子がせっかくお揃いだったのにね、とほんの少しだけ寂しそうな顔をするのが惜しかった。

「それよりどうしたの?その匂い」

 身体が重く熱を持ち、どうにも瞼が閉じてしまいそうな紫色の香が彼女を取り巻いている。

「ねぇ、ひぇーず」

 ゆらり、と短くなった髪が揺れる。何かの負荷がかかっているかのように重たく、異様に。

「一緒に抜け出さない? エスケープってやつ。海の方までいってさ。最後は一緒に飛び込んじゃおうよ。そしたら、もっと、楽しいかも」

 どういうわけかそんなことを口走って、彼女はようやく正気に戻った。ごめん、なんでもない、と声にしようとして、彼女の喉はふさがった。

「いいよ」

 居心地の悪い沈黙が流れるよりも早く、日吉津涼子はまっすぐな目でそう告げる。めじろの手を取って、彼女は走り出した。教師の目を盗んで玄関まで一直線に、まるで魔法のように誰にも気づかれないで、サイコチックかつドラマチックに駆け抜けていく。風景の全てを追い抜いて、上気する頬は寒風に当てたまま、学校の裏手に出て日吉津涼子はようやく、馬車馬のように動かしていた足を止めた。

「……意外と、簡単だったね。ねぇ、どうやって海まで行く?車は無理だもんね、やっぱり電車かな!お金、大丈夫?」

 息を切らして快活に笑う。めじろに先の弁解をさせる隙は露ほども残されていあにかのように、日吉津涼子は珍しく饒舌に、無理に明るくしようと空回っているぐらいに喋っている。

「……お金、は、大丈夫。多分足りる」

「大丈夫。足りなかったらちょっとくらい貸すから」

 日吉津涼子はめじろの両手を包んで一言一言を丁寧に、彼女を安心させたい一心で話続ける。次の返事は待たなかった。

「電車で決まりね。さ、行こ。きっと楽しいよ」

 二人のエスケープは、無計画に飛び出したにしては案外上手くいった。オレンジ色のワンマン列車に乗って、天井で回らずに固まっている扇風機を時にぼーっとっ見つめながら、街で一番海に近い駅に降り立った。鉄骨ととたん屋根、少し塗装のはがれた駅名看板だけで出来た、真っ白な小さい無人駅に、真昼間からセーラー服の少女が二人突っ立っている。田舎の中学生二人にとっては、市内とはいえ、学校を抜け出して電車に乗るというのは十分な大冒険である。

 コンクリートの無骨な階段を下り、日吉津涼子は潮の匂いがする方へと走っていく。めじろは心ここにあらずのまま彼女の勢いにひかれていく。裸足で触れる1月の砂浜ははるか奥底まで痛いほどに冷たい。真冬の濃色の海にお世辞にも良いとは言えない曇天が沈み込んでいる。日吉津涼子が言うには、今日は雨は降らないらしい。天気予報を信じる限りはそのはずだ。沈黙を波音が一寸だけ埋めて、再びしんしんと静寂が始まり、また波音が一寸埋める。歩く度に体がミリ単位で沈み、海水を含んだ柔らかな砂は指の隙間を埋める。

「足、洗いに戻ろっか」

「……うん」

 海水客向けの水道を海へ向かうときに見つけた。車通りの少ないアスファルトは数名濱に比べたら暖かいものの、知らない人肌に触れたときの様な気色の悪い熱を持っていた。

「ひゃっ」

「うわっ、冷たっ」

 流れ落ちる透明に足をくぐらせて彼女たちは小さく悲鳴を上げ、顔を見合わせて笑った。流水は排水蓋に跳ね返って無数の放物線を描く。水滴ひと粒ひと粒が針のように冷たく肌に刺さり、体温の抜けた足は真っ白に染まった。

「学校抜け出してまでやってることが足洗いって、なんか笑えるね」

「なんか実感わかないや。夢でも見てるみたい。ねぇ、どうせならさ、もっと派手な事しようよ」

「例えば?」

「う~ん、とりあえず、お茶でもしない?さっき海にいたときに見えた建物さ、あれ、たぶんカフェだと思う」


 〇


 右手にケーキ、左手に貧相な花束を握って、日吉津さんは坂を登っていく。緩く長い坂は気色が悪い。心臓が心拍数をあげようかあげまいか選びかねているようだ。

 粘つく潮風に吹きっさらしの警告看板はそこら中に錆が湧いていて、文字を読もうにも輪郭が掴めない。一昨年まではまだ読めたのに。

 海に近づけば近づくほど木々は疎らに、とうとう丸裸の地面が広がって、最後は岩ばかりになる。切り立った崖の下に青黒い海が沈んでいる。

「ねぇ、なんであの時いいよって言ってあげたか教えてあげようか」

 梶川めじろは何も言わず、ただモデルのように笑っている。ざぶざぶと波音が鳴って、ただでさえ冷たい風が余計に冷たく感じられる。手袋もしていない両手がかじかんで、見てみると真っ白に色を失っているが、物でふさがっていて暖を取ることができない。もうちょっと分厚いコートでも着ていればよかった。

「私、特別なあんたに認められて、自分も特別になれたって、一瞬浮かれたのよ」



「とうちゃーく!」

「やっぱりカフェで合ってたじゃん」

 海沿いの白い建物を目指して駄べりながら近づくと、日吉津涼子の言った通りテラスの付いたカフェであった。バブルの勢いのままでデザインしたようなチープなヤシのイラストが看板に描かれている。少し古びたドアノブを絞って2人はドアをくぐった。外装と同様に白を基調とした店内には、模造品のヤシの葉やレプリカのウクレレ、色鮮やかな鳥のぬいぐるみ、季節外れのハイビスカス、極めつけはハワイアンミュージック、と、とにかく南国を連想させる種々の物が並んでいる。少し押し付けがましささえ感じるぐらいだ。

「この店、冬に来るところじゃないね」

「確かに、今だって3時なのに空いてるもんね」

 ヒソヒソ声で店の悪口を言い合いながら、ブラックボードに書かれたメニューを見定める。コーヒー、ハイビスカスティー、ココナッツジュース。ランチタイムにはハンバーガーとロコモコを出しているらしい。

「私はねぇ、これ、ハワイアンパンケーキ」

「ふつうのパンケーキと違うの?」

「ハワイアンパンケーキはねぇ、イチゴとか、生クリームとか、ベリーソースとか、甘いヤツがドカドカ載ってるんだよ」

 出てきたパンケーキは、平たい2枚の円盤に乾燥した生クリームが盛られ、申し訳程度にいちごが3つ載っている、要するに名前負け甚だしい代物であった。ハワイアンなのはそれらの乗っかっている皿の模様だけである。

「めじろ、こういう嘘はだめよ」

「待って待って待って、違うって。私も今想像と違ってびっくりしてるとこだよ。まさか、だって、あんなに自信もって太字で書いてる癖に、これはないよぉ……味はふつーにオイシイけどさぁ……」

セットで頼んだコーヒーを2人揃って甘くした。ピッチャーは空に、スティックシュガーも二人合わせて10本ぐらい折った。爽やかで乾いたウクレレの音が、掃き出し窓から見える寒々しい海を遠ざけている。じっと聞くうちに、それが映画のサントラをボサノバ風にアレンジしたものであることがわかった。あれは何の映画だったか、有名なシーンだけが記憶の中で先行して、タイトルが思い出せなかった。

「それで、どう?」

脳裏でワンシーンばかりリピート上映していためじろに、日吉津涼子は徐に問いかける。

「どう、って?」

「死ぬ気はなくなった?」

「……う~ん、半々、かな」

「そう」

「どうしてか聞かないの?」

「聞いてほしいなら、聞くけど」

「じゃあ聞いて」

「どうして?」

「聞いて欲しいから」

「そうじゃなくて」

「ごめん、冗談じょーだん。あのねぇ……」

 ゴミ屋敷の話、機嫌の悪い父の話、割れた香水瓶の話、彼女は堰を切ったように洗いざらい、順を追って全て話して、乾いた喉を覚めたコーヒーで潤した。粘性のある砂糖がコーヒーカップの底に張り付いている。日吉津涼子は時折”そうなの”だとか”へぇ”だとか相槌を打っては、素朴なパンケーキを口へ運ぶばかりであった。

「それでさ、あたし、どうしたらいいと思う?」

「えぇ……、知らないよ」

 めじろは露骨にがっかりしたような顔をした。日吉津涼子は焦った様子で何度か空を噛みながら、必死になって言葉を選んでいるようであった。

「なんというか、逃げるってのもありじゃない?」

 長考の末に日吉津涼子が導き出したのはなんとも単純な言葉であった。きっと彼女なりにとびきり配慮して、コーヒーもパンケーキもなくなって、時間切れを感じてどうにか形にしたものだったのだろう。日頃の仏頂面よりも尚眉根を寄せて、普通の答えに落ち着いてしまったことを悔しがっているようでもあった。

「今日だってここまで逃げてきたんじゃん、できるよ。たぶん」

  渋々押し切る日吉津涼子の顰め面に対し、めじろはニンマリ笑って、彼女の眉間の皺を人差し指で伸ばした。


 〇


「で、も、ね、ぇ? あんたときたらあの後一回も学校来ないで、あとから聞きゃちゃっかり県外の高校行ったそうじゃないの」

 日吉津さんは徐に、梶川めじろの胸倉を掴んだ。血液のように赤いリボンに引っ張られて、浮いたセーラー服の下には臓物がない。肋骨仕立ての花かごに幻覚のラベンダーが詰まっている。一瞬、梶川めじろの顔に様々な感情が浮かび出て、口角が歪む。笑顔と称するのはあまりにも軽率な、寂しい表情が幼い彼女の顔を支配した。

「……あーのーねぇ、私の知ってる梶川めじろは、そんな下手クソな笑い方しない。もっと完璧に綺麗に、なんなら自分が特別だって知ってるみたいに笑うの。だいたい私はハタチ、あんたは見た目中学生ってシチュエーションがおかしいのよ。仲良くなって一週間かそこらの奴に死ぬなんて重たいお誘いするぐらいだったら、ちゃんとお別れするなり連絡するなりしなさいよ!むっかつくなぁ!」

 彼女は大きく振りかぶって、叩きつけるように花束を遥か海面に投げ落とす。勢いでほどけたリボンから、乾燥したラベンダーが匂いをまき散らして思い思いに飛び出して、自分勝手に舞って消えていった。

「次はこっちだバカヤロー!」

 思いつく限りの罵詈雑言を叫びながら、投げ出されたケーキは重力にしたがって海面に向かって落ちようとして、途中で岩盤に引っかかり、べしゃりと潰れる。あの可愛らしく美しい形は見る影もない。

「あ~っはっはっはっはっはっは!!!!!はぁ~、我が夢ながら片腹痛いわ」

 梶川めじろの亡霊は消えてしまった。

「ずっと会ってないからって、死人扱いするとか。悪夢も大概にしてよね」

いつの間にか曇ってしまった空に寒禽が鳴いた。げらげら笑っているような声だ。


 〇


 日吉津さんは目を覚まして、なおも海を見続けている。どういう訳か、もうじき梶川めじろに会える予感がした。

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浮遊感 いろはに @irohani1682

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