浮遊感

八京間

お風呂場輪廻

 見知らぬ浴室で目が覚めた。浴室と判断できたのは、目を開いて初めに見たものが己を見下すように、はたまた晩夏のひまわりのようにしなだれたシャワーヘッドであったからだった。得体の知れない甘く、それでいて渋い香が鼻腔に入り込んで気管のどこかがじりじり炙られる感覚がする。他人のタバコの煙を故意に吸い込んだ時に似た、不健康で退廃的な香りだった。防水カーテンの裾は乾いていて人熱から切り離された浴槽の縁はひやりと硬い。

 遠くから大地の揺れる時の様な篭った音がずっと聞こえている。ボイラーの稼働音だろうか。

 浴槽から足を抜き出すと、床に敷き詰められたタイルの細かな凹凸が足の裏に緩い刺激を与えた。しばらくこのまま立っていたら凸凹がそっくりそのまま印字されるだろう。排水溝の縁にさえも水はなく、浴室はとことん乾いているのに、自然光をてらてらと反射する水色の床タイルだけが不自然に涼を感じさせる。すりガラスのドアは閉じていて、まだドアノブにも触れていないけれど、空気がこもって湿気にまみれているわけでもなかった。

 丸い鏡に己の顔が映った。すぐ真下の洗面台に置かれたシェービングクリームと端の丸められた歯磨き粉のチューブも、縁取るように鏡に映りこんでいる。流しにも水が流れた後はなく髪の毛一筋も絡んでいないが、浴室は生活感と完全に切り離されているわけではない。ただそこには、自分でない誰かの使った物達が痕跡として、或いは故意にどこかから持ってこられてあるだけだった。洗面台の下の排水パイプのそばに、横倒しになった香水瓶を見つけて、浴室に充満する匂いの主がはっきりした。横倒しになっているのに残った液体が少ないのか、地面にこぼれた痕跡はない。乾燥している。

「おや、誰かいるのですか」

 一切の気配を絶ち、突然音声だけが現れたように感じた。浴室を遮るすりガラスの向こうに背の高い奇怪な形の影が見える。扉一枚隔てた先のそれが人の形をしていない事だけは確かだった。低い、唸るようなエッジのかかった声で、男、或いは雄だと判別する。

「すみません、私の足ではドアが開けられないので、開けていただいても?」

 得体の知れない相手がドアの向こうにいることを知っていて、迷わずドアを開けるほどの勇気はない。じりじりとすり足で近寄り、すりガラスの向こうの影をまじまじと観察する。どうやら四足歩行のようで、あくまでドアから見える部分での判断だが、上半身に比べて下半身の影の面積が小さかった。すりガラス越しから入手できる情報は、どれだけ時間をかけてみてもたったのそれだけで、時間が経つにつれ、相手の得体が知れないことに対する恐怖感を一縷の知的探求心が凌駕し始めた。

 初めに呼びかけられてから3分ほど経って、ようやくドアノブへ手を伸ばす。回転式のドアノブから心地の良い冷感がした。

「あぁ、やっと開けてくださいましたか。待っているのも骨が折れました」

 浴室ドアを内側へ引き込む。そこにいたのは、灰色と茶色の混じったような毛色の、ロバであった。

 ロバ。動物界脊椎動物門哺乳網奇蹄類ウマ科ウマ属ロバ亜属ロバ。チベットでに運びしているような、耳の長いロバであった。

「此処は何処?」

「見ればわかるでしょう?ふロバです」

 ここはどこの浴室かという意図で尋ねた質問に、てんで期待外れの、しかも全く面白くもないジョークを返され、自分でも不信と不快の意で目が細まったのが分かった。

「…すみません、面白いと思ったんですがね」

 この紳士的な話し方をするロバには、どうやらお笑いのセンスはないらしい。

「わたしにはっきりとわかるのは、ここが浴室で、ここじゃないところも浴室だということです」

 まるでなぞなぞの問題文のような解答は、ジョークでないにしても、やはり期待外れの代物であった。

「どういうこと?」

「ご自分の目で確かめていただければ、きっとすぐにわかりますよ」

 すりガラスのドアの隣で、ロバが半身退いた。恐る恐るドアの向こうを覗き見る。あるのは一般的な家庭の洗面所で、四角い大きな鏡と流し台、ドラッグストアで購入できるようなありふれた化粧品が並んでいる。隣の棚におろしたてのタオルが積まれていて、しかしホテルのタオルのように白無地ではなく、様々な色・柄をしたものが雑多に積まれている。小さな子供の喜びそうな車の柄や、結婚式の引き出物で貰いそうな花柄、引っ越し祝いや法事で貰うペラペラの安いタオルなど、良くも悪くも生活の痕跡が垣間見える。

「浴室、というより洗面所に見えるんだけど」

「後ろのドアを開けてみればわかります」

 背後にあるのは引き戸である。明るい茶色の木目がプリントされている、一般的な合成木材のドアだ。きっと廊下に続いていると思って開ければ、ロバの言う通り、広がっているのは大きな窓のついた浴室であった。

「…なるほど」

「こっちの浴室は明るくていいでしょう」

 眼前に広がった第二の風呂場は、ヒノキの浴槽に緑の透けて見える大きなガラス窓、透き通った天窓からは、サンサンと太陽光が降り注ぎ、まるで温泉宿の特別浴室の様な、洗練された和の雰囲気が漂っていた。板張りの床は、やはりモデルルームの浴室のように水滴一つなく、からりと乾燥している。

「ねぇ、どうして脱衣所から風呂につながってるの?」

「脱衣所は風呂につながってるものでしょう?おかしなことを言いますね」

「あぁ、そうじゃなくて、ほら、廊下かどこかにつながってはいないの?」

「言ったじゃないですか。ここも浴室で、さっきのところでもここでもないところも浴室なのです。」

「あの窓の向こうは、さすがに外でしょう?何か植物が見えるもの」

「開けてみればわかることですよ」

 銀色の鍵を跳ね上げ、巨大なガラス窓を横にスライドさせる。

「…どこまで行っても浴室ってことね」

「そう言いましたよ、私は」

 現れたのは亜熱帯のリゾートの如き密林……を模した緑あふれる、やはり、浴室であった。こういう、孔雀の羽をただの緑一色に染めたような葉は国民放送の特集番組で見たことがある。確か、木を彫って作った船でアマゾン川を下る企画であった。だが、今はそんな場合ではない。木製の窓枠をまたぎ、足を下した先に鮮やかな鳥の羽が何枚か落ちているのを見て、彼女はロバの方に向き直った。

「ここに、私以外の生物、それぐらいいるの?」

「いろいろいますよ。リスザルやコウモリがそこらに住んでます。私は随分向こうの薬湯の方から来ました」

「あなた、ドアノブも回せないくせによく私のところまで来たわね」

「いろいろ手伝ってもらったんですよ」

「ここ、鳥や虫もいそうね。アマゾンとか、そんな感じ」

「鳥も虫もいません」

「ふーん。ねぇ、ここで私以外に人間は見た?」

「さぁ、どうでしたかね。ずいぶん昔に見たような気がします。見ていないかも。見ていたって、居場所なんてわかりません。私も迷っているようなものですから」

「じゃあ、薬湯には帰れないのね」

「えぇ。迷子ですから」

「私、一旦自分の浴室に戻るわ。あそこの窓の向こうも気になるもの」

「まだ、そんなに進んでいませんから、すぐに戻れるはずです」

「あなたはついてこないの?」

「偶然、通りがかったようなものですからね。また迷ってみようと思います」

「そう、どこかのドアを開けるお手伝いはしなくても結構?」

「えぇ。このまままっすぐ進んでみます。それでは」

「さよなら」

 彼女は亜熱帯の浴室からヒノキの浴室へ、どこかの家庭の脱衣所を通って、間違えて反対側の浴室へと入っていった。扉を開いた途端、鼻をかすめるのは爽やかなレモンの香りであった。ここの浴室にはドライフラワーがいくつもぶら下がっている。香りの正体は乾燥したレモンバームであった。五,六本ほど束ねられてシャワーカーテンのレールに下がっているそれを一本抜き取り、鼻の近くに持ってくると、より一層爽やかで、しかしどこか汚れたようなにおいがした。だが、はじめの浴室で匂っていたタバコとラムの香水よりはこちらの方が好みだ。浴室は寒色系のモザイクタイルに白い猫足バスタブ。まるで真昼のプールサイドのような清涼感があふれている。

「どうせなら、お風呂、入っちゃおうかしら」

 蛇口を捻る。待っていましたと言わんばかりにぬるま湯が流れ出し、足がつかるほど溜まってみれば、それはミルク色であった。

 やがて並々と湯が溜まり、体を沈めた途端、異様なほどに浴槽が広く感じた。足が延ばせる伸ばせないどうこうではなく、それこそ大衆浴場の風呂のように広いのだ。何故、如何して、と考えようとしたが、ぬるま湯の温度に体の芯まで温まったころには思考する気を失って目を閉じた。遠くから聞こえるボイラーの音にも妙な愛着が湧いて、不思議と心地良かった。

 次に目を開いたのは、足先に硬い感触を受けたためであった。浴槽が縮んだのかと思ったが、己の足先が先ほどより随分遠くにある。どうやら、己の方が大きくなったらしい。そう気づいた途端、浴槽の下部に大穴が開いたかと思えば、轟々とお湯が流れ出した。全ての湯が流れ、自ずと彼女も大穴へと向かっていた。

「見てください、お子さん、生まれましたよ」

ほぎゃほぎゃと赤子が泣いた。泣くのは呼吸のためばかりでなく、出生前の極楽を思って泣いているのかもしれない。

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