落日を担ぐ

 アデル・ピークを殺してから、一ヶ月。

 空に羊雲。風は、遠くに見えるあの山並みから秋を運んできていた。

 収穫を終てからしばらくの大麦畑は、所々雑草が生えている。

 ルークの町の西外れ。教会に併設された孤児院の瓦張りの屋根上。俺は気配を殺してよじ登る。

 それから、そっと下の様子を伺う。

 祭服に身を包んだ痩身長躯の中年が、庭先で遊ぶ数人の子どもたちを、眩しいのか或いは笑っているのか、目を細めて穏やかに眺めている。

 あの時より頰が痩け髪に白いものも混じり始めているが、間違いなかった。

「ヴィトヒ……ハイマン……」

 声は震えている。

 子どもの一人が遊びの輪から外れて、ハイマンの元に駆け寄る。二つ、三つ言葉を交わして、笑い合う。それから彼はその子の背中を優しく押して、輪の中に返した。

 それを目にして、俺の感情は黒く火が着く。

 その優しさがあって、何故だ。

 それから彼は一人、教会の中へと入っていった。

 好機。そう思い定め、腰から短剣を抜く。革の鞘と刃が擦れて、ざらりと音が鳴る。左は逆手に、右は順手。いつも通りだ。

 瓦を蹴って、地面に降りる。音は出さない。

 それからゆっくりと教会の戸を開けて、中へと入った。

「待っていました」

 ステンドグラスを通った色とりどりの陽光を背負って、ハイマンが微笑を浮かべていた。

 気付いていたのか。短剣を握り直し、構える。

「待っていた……、だと?」

「言葉の通りです。君は、サンドラ・リューレ夫人のご子息でしょう?」

「覚えているのか! 母を」

「ええ、勿論。火刑に処した魔女は全て覚えています。そしてその家族、友人も」

 短剣の柄を割らんばかりに握りしめる。

「母は……、母は魔女などではない!」

「ええ、あなたはそう言うでしょう。ですが、魔女です」

「黙れ! それ以上母を愚弄するな!」

 一足でハイマンの胸元に飛び込み、その喉元に短剣を当てた。それでも、ハイマンは慌てもせず、言葉を続けた。

「私らが魔女に堕としてしまった」

「なにが言いたい、ヴィトヒ・ハイマン」

「私はもう耐えられないのですよ。終末を果てに追いやるために、人を魔女に仕立て上げ、炙り殺し、皆と安堵し、笑うことが」

「……何を言っている。貴様は」

「復讐を果たしに来たのでしょう。さぁ、その短剣で私の首を刎ねてください」

「答えろ! 貴様は何を言っているのだ!」

 短剣の刃が、ハイマンの首皮を一枚裂く。そこから流れ出た血が祭服の白い首元に染みた時、彼は深くゆっくりと息を吐いた。

「終末が近いと、人々は思っています」

 終末。聖典に書かれる世界の終わりのことだ。

「だからなんだと……」

「人々の不安に呼応して、世は荒れます。皆、終末が近いから病が流行り、天災が続くと思っていますが、真実は違います。終末が近く世が荒れるだろう、きっとそれは病や天災として現れると思う気持ちが、病や天災を起こすのです」

「それと母を殺したことになんの関係がある!」

「思い出してみてください。サンドラ・リューレ夫人を火刑に処した後、確かに雨は降ったでしょう。災禍の因を一人の人間に求め、殺せば皆それに安堵します。結果として、その災禍は消えるのです」

 ふと、病の魔女の涙を思い出した。

「……正義のために害したとでもいうのか」

「はい。人のために成しました」

 ハイマンは逡巡せず、真っ直ぐ俺を見つめてそう言った。

 母は人のために死んだ? それが正義? だがそれを誰が望んだ? 人々か? 

「刃が震えていますよ」

 そう言われて、我に返る。ハイマンの言ったこと、それが真実だろうと、ーーーー磔れた母、剥がされた爪、絶叫、流れる煙ーーーー殺す、こいつは。

「お前は、許せない」

「ええ、私も私がもう許せません」

 迷いごと、短剣でハイマンの首を掻っ切る。血が噴き出す。けれど、悲鳴一つもあげずに、彼の体は倒れた。ふと、安心したように笑った気がした。

 刃の先から血が滴る。

 なんなのだ。一体。心の靄を断ち切るところにまで、この刃は届いていないようだった。

 お前らは敵なのだ。慈悲も容赦も必要のない、ただ悪なのだ。

 そう自分に言い聞かせ、俺はその場を後にするのだった。

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