摂氏八度の月光が差す
立ち並ぶ屋根の隙間から見える夜空には、三日月がそっと置いてあった。
俺はレンガ造りの娼館の壁に身体を預けて、夜を吸い込む。湿った夏の夜風に、先日の雨で上がった下水の匂いや軒連ねる娼館から漏れる香水の香りが鼻をつく。
交易都市、ライトプヒ。二つの運河に挟まれ数多くの商人が行き来する煌びやかなこの都市も大通りを外れて小路を進めばこんなものだ。
吐き散らかされた吐瀉物に、アヘン中毒末期の廃人が力なく倒れている。
月光はここまで届かない。無論、俺にも。
遠くから美しい音が響いた。教会が鳴らす午夜の鐘だ。
「やっと……だ」
それを聞いた俺は思わずそう呟いた。
五年、五年だ。
目を閉じればあの時見た煙の流れゆく様がはっきりと思い出せる。母の断末魔が、あの司祭達の誇らしげな顔が、今も頭の中にへばりついて消えない。
タールのように粘り気を帯びた黒い感情は、けれど止めどなく俺の心を侵し続けている。
長かった。
これは始まりだ。俺があの三人の司祭に復讐する、その始まりだ。
娼館の扉が開くと、そこから出てきた男が木製の靴底で街路を小気味の良く鳴らした。
聖職のくせに良い靴履いている。そして、俺は腰から短剣を二本引き抜く。研がれたそれは月光に照らされて濡れているように怪しく輝く。
「アデル・ピークだな?」
ハットに深緋色のマントを纏う小鼠のようなそいつに問う。
「ち、ちちちがう!」
言葉とは裏腹に俺は確信した。作りの悪い陶器のような、ざらざらと薄く硬い声は、アデル・ピークのものだ。忘れるはずがない。
つば広のハットのせいで、顔色は分からない。けれど、その声は焦っていた。当然だろう。聖職で足を運んで良い場所じゃない。俺は無視して、再びピークに問う。
「サンドラ・リューレを、知っているか?」
「私はピーク司祭ではないぞ、……ない。ないからな」
「サンドラ・リューレだ。知っているな?」
「サンドラ・リューレ? 誰だ? 知らんな。あ、今日抱いた娼婦か? いや乳が貧しくてな。ハズレの女だったぞ」
間の抜けたその言葉で、俺の心は暗く、暗く燃え上がった。
「娼婦だと? 母を謗ったな、下郎。……殺す」
街路を踏み抜く。左逆手に持った一剣で弧を描くように切り上げた。
「ひ、ひぃ!」
情けない声とともに退いたピークの眉尻から額にかけての皮が薄く裂ける。被っていたつば広のハットが闇夜に舞う。
彼は体制を崩してへたり込み、月下に血と汗と涙で汚れたその面を曝す。
鼻の奥をつんと尿の匂いがついた。ピークは失禁していた。
「私はアデル・ピークだぞ! この街の司教だぞ! こんな行いをしてただで済むと……」
右順手に持った短剣を無造作に振り下ろす。ピークの右耳が落ちる。汚い悲鳴が響く。
「待て! 待て! その方の母君とは知らなかったのだ! 失言を詫びよう。人探しなら司教の座を用いてどうにかできよう。だから命は……命だけは……」
「母は五年前に死んだ。お前が魔女として嵌めたのだ。信心深かった母を、嵌めたのだ」
「待て! 待つのだ! なんでもする! なんでもするから!」
左の短剣の刃を首筋に当てる。それから低く俺は言った。
「ならば教えろ。あの時の司祭、残り二人はどこへ行った」
「教えたら殺さないか?」
「ああ」
「か、か神に誓って?」
「誓うとも」
ピークは安心したように深く息を吐いた。
「ヴィトヒ・ハイマンはルークの町で孤児院をしている。グスタフ・キリシュライトは教皇になって聖都に……!」
そこまで聞くと左手を振り抜いた。
「な……んで……」
裂けた首を抑えるピークを蹴りつける。道に転がったそれに馬乗りになって短剣を刺す、刺す、刺す。胸も、腹も、どこも、かしこも。
遠くで野犬が吠えた。
気がついて手を止めると、それにはどこも綺麗な部分がなくなっていた。
荒くなった息を整えながら立ち、細い三日月を見上げる。
「次は……ルークの町……」
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