第3話
人間とは、須く学習する生き物である。
しかしておれは、
「はぁ……はぁ――やべぇ」
月島瑛斗は学習しないということをおれ自身が学んでいたのだ。
ゴールデンウィーク明け、変な女に絡まれ殴られたセンセーショナルな初日とは裏腹に空白に抜け落ちた大型連休が過ぎて、気が付けばおれは通学路をいつもの二倍マシの早さで移動している。
じりじりと控えめに照りつける日の光りもどこかいつもより高く、そして無駄に暑苦しかった。
それは自分が走っているせいでもあるのだが、如何せん急に暑くなったもんだからたちが悪い。
おかげで額から汗が滴る、うざったい。
と、いうように頭の中で様々な言葉をこねくり回せば、時の流れもゆっくりになって門限に間に合うのではないかという淡い期待も冷酷な時計の前では無意味だった。
端的に言えば、遅刻。
現在時刻、PM12:40。遅刻どころの騒ぎではない、飯を食って二時間受けたら帰るだけ。
もはや退職間近の公務員並みの出勤。
万年平なだけ慎ましやかだが、それでも府に落ちない。
というかそもそも、おれはこれを遅刻と呼ぶことを認めたくないのだ。
おれが遅いのではない。時間が早すぎるのだ。
左右忙しなく入れ替わる両足の疲労感を紛らわすようにソヴィエト構文をキメて、校門へと今ゴールイン。
これは月島選手、ゲート難がついてしまっている出遅れも良いところ。
現実世界にコンセントレーションとかいう金スキルあったらまぢでマストで取ります。
靴箱にはきなれたスポーツシューズを放り込んで、適当に教科書を目分量で掴んで抱えて走り出す。
まるでラグビーだなと、自分自身の様相を鼻で笑って脹ら脛に疲労が貯まった両足を無理矢理動かすパンプアップしそう。
くだらない冗談に思考を巡らせていながらも、自分でも自分のことがろくでもない人間だと思う。
所詮自分はこの程度だと。
何者にもなれない後悔に縛られた人生を送るのだろうといつものように諦めのため息を心のなかで一つついた。
しかし、人間というものは諦めたときに変化が訪れることが以外にも多いものだ。
諦めることさえ、諦めてしまったときが本当の終わり。
そういう意味では、まだ自分を見失ってはいなかったのだ。
閑話休題。
それは、一階のエレベーター前。職員室へあと数メートルを残したところで起こった。
下駄箱から一直線、職員室へと続く廊下を全力疾走駆け抜ける。
職員室の無駄に涼しいエアコンの冷気がムワっと全身を覆った。
……くそ、こっちだって税金払ってんだから一般生徒の教室にも付けたいときに付けさせてくれよ。
なんて、以下にも世の中の仕組みを分かった気になっている男子高校生の愚痴を心に覚える。
イラつきながらもやっとついたと気を抜いて、少しずつ足を動かす速度を緩めていたところ。
視界の右端、角を曲がってパタパタと駆けてくる女子生徒がひとり。
コンマ何秒。危ないとすぐに分かって。
「うわっ――――」
体重の乗っていた左足に体を預けてのけ反った、そのまま重心が後ろに倒れて。
あっ、ヤバイな。と直感。
エレベーターの乗降スペース。
リノリウムの床に大小様々な高等学校御用達の紙の束たちと共に、中肉中背の男が勢いよくベタンと打ち付けられた。
授業時間だからか、廊下に嫌に音が響いた。
こだまするような忙しい音たちを耳におれは、なんとか回避は出来たと少し安堵。
「……いってぇ」
幸い鞄を背負っていたからか、背中からムチ打ちにはならなかったが、受け身を取る際ついた左手の付け根のあたりがじんじんと火傷をしたときのように熱い。
半分ずり落ちている鞄を右肩から順におろして左手首をプラプラとさせてそれが重症ではないことを確かめた。よかった、擦り傷で。熱い怪我は火傷か骨折か擦り傷と相場が決まっているのであーる。これ元スポーツ選手の小咄。
「……え、えぇ?」
困惑にまみれた声音がおれの右後ろの方から聞こえてきて。
「危なねーなおい!」
反射的に散らばる教科書たちには目もくれず勢いよく踵を返した。
「あ、危ないのはそっちでしょ!?」
少し怖がった様子で……それでも彼女はその攻撃的な瞳をゆっくりとおれと合わせた。
「「…………え」」
静かな、空間だった。
ポカンと虚をつかれたように互いに口を開いて呆けている。
どこからか聞こえてくる小鳥のさえずりに、行き交う車のエンジン音。
一つとなりの体育館から、体育の連中の喧騒が遠巻きに聞こえてくる。
だけども、きっと。
おれたちの静かなる驚嘆の叫びは、この学校の何よりも明朗に軽快に響き渡っていたに違いない。
紛れもない、目の前の少女は。
小悪魔チックに跳ね上がった睫毛。
少し切れ長で、それでも可愛らしく目じりが垂れていてなんだか吸い込まれそうなほどに魅力的なアーモンドアイ。
全体的に色素が薄いのかグレージュのような色合いの透明感のある髪色。
ピョコピョコと垂れ下がるハーフツインテールが機嫌よく跳ねている。
あり得ないものを目にとらえたかのような表情で彼女はその小さな桜色の唇をぱくぱくと動かした。
「こ――――この前の人っ!?」
ビシッと彼女は地面に片ひざをついているおれに指を指す。
鈴を転がしたような心地よい響きの声。
おれの海馬に一つ、ピントくる人物像が嫌でも一つ浮かびあがってきた。
おいおい、マジかと。教科書を踏みながら立ち上がった。
おかげで今日提出予定だった気がする数学のワークに足跡のスタンプがついてしまったがそんなことは今、関係ない。
「お前、この前の……」
せり上がってくる言葉が一つ、喉を通ってまろびでた。
「なんでここにいるんだよっ!?」
「なんでここにいるんですかっ!?」
偶然にも二人の驚嘆のクロスカウンターがお互いの耳朶を打った。
嫌に、通路の奥から差し込んだ朝日が眩しく感じた。
……奇跡か!?いや何かの間違い?妄想?脳がバグった?
様々な可能性の渦が頭の中を錯綜する。
しかし、一つだけ確かに直感することがあった。
間違えても、それを運命なんて言えない。
こんな退廃的な運命は運命ではない、もはや因縁と呼ぶべきで。
なぜか、その因縁が悲しくも眩しく見えたものだった。
彼女の背後から差す日の光がまるで後光のように見えた。
相も変わらず、美麗な少女だと。
その湧き上がる感情には疑いの余地がない。
エレベーターの壁の影に、身を落としている自分とは全くもって正反対な、眩しい人間に思えた。
でも、その眩しさもすぐに消えた。
おれの背後からヌッとさらに濃い影が差して、目の前の彼女は驚きに目を丸めておれの後ろーーの少し上の方に視線をやっている。
恐怖にもにた彼女の顔立ちに、おれは訝る。
ん?なんだ、後ろ少し上?
振り向こうとしたところ、がしっと。
いきなり頭をアイアンクローのように掴まれてぎりりと顔が無理矢理後ろに向けられた。
「……月島?この前遅刻はダメだとあれほど言ったはずだよなぁ?」
ああ、おれはもう死ぬんだな。と本能的に思わされた。
「……はははっ。介錯は頼みましたよ鐵先生」
もはや乾いた笑いしか出なかった。
我らが生徒指導科、鐵 理恵先生。こちらからは見えないが今日もパリっとしたスーツを着て、馬尻尾のようにかっこいい漆黒のポニーテールを揺らしているに違いない。豊満な胸と共に……この情報は余計か。
それにしても、一切の気配を感じなかった。
エレベーターいつ降りたんだ?
恐怖で身がすくむ、鐵先生あなたの血の気は濃すぎるんだよ。
どのくらいかと言えばヤシガニのダシがOS1にしか感じなくなるくらい濃い。
……よくわかんねーなこの例え。
「ん?お前は……一年か」
おれの正面にいる少女に気がついたのか、なぜかおれまで無理矢理彼女のほうに視線をグリッと向けられた。恐らく上履きの色で学年を判断したのだろう、おれは緑、彼女は青だ。てか痛い痛いっ。
痛い痛い先生超痛い。
なんでおれの首の筋肉の機能を信用してくれないの?向けるよそっちぐらい。
首だけ動かされても体が追い付かんだろうが。
「――あ、は、はいっ。一年です」
か細い声で伏し目がちに、恐怖をあらわにその大きな瞳を涙で滲ませながら肩をすくめてコクコクと小さい顔をうなずかせている。
サイドテールがぴょこぴょこと自信なさげに礼をしている。
うわーずりーその可愛さはずるい。庇護欲ゲージがカンストしてゼロから数えなおされそう。一周まわって放っておいてどうなるのかその瞳に不安を見たい……相当気持ち悪いなおれ。
まぁ、兎にも角にも。
人殺しても許しちゃいそうなほどに破壊的な仕草。
天然なのか、計算なのか分からないがどちらにしても効果はバツグンだったようで。
「おお……」と先生は謎のうめき声をあげてクリティカルヒット。女性にも効果はバツグンらしい。
先生はその仕草に尊びをもった目を向けると、ああっと何かに気づいたのか声を上げた。
「というか、天川じゃないか。朝のHRいないから、何事かと思ったぞ」
「す、すみませんでした……」
ぴょこりと頭を下げて、申し訳なさそうな顔をした。可愛い。
てか、そっかそういえば関係ないけど鐵先生今年も一年生の学年主任もやってたっけな。
会話を聴くにこの後輩少女は鐵先生が担任なのか……厳しそうに見えるけど大当たりの先生なんだよな、実は。
「ははっ。なになに、ここにいるこの男よりはましさ」
「ちょっと先生、対応違いすぎませんかね……」
形式上同じ遅刻だというのに、なんだこの違いは。可愛さの違いなのか?
可愛いでしょう?余裕の表情だ、待遇が違いますよ。
不満をあらわに固定された首のまま精一杯目を先生の方に動かして、抗議をすると問答無用でねじ伏せられた。
「……ほれ、明るくなったろう」
めきめしっと思い切り強い握力で頭を握りつぶされている。
細くながい指先がおれの頭蓋骨をキリキリと締め付けている。どんどんどんどんとそれは勢いを増して……
「あー痛い痛い痛いっ!暗い暗いですっ!視界がくら…い」
「ふぅ、静かになったな。罪には罰を。私のモットーだ」
「し、死ぬッ……ぅ」
「……あ、死んだ」
可愛らしい響きで全くもって可愛らしくない、そんな言葉が聞こえた気がした。
そういや、名前。天川って言うんだな。
飛びそうな意識の中そんなことを回想しながら、おれたちは職員室へと連行された。
後悔を癒してくれる、後輩が今日もかわいい。 マスターべーターストロング @masturbatorstrong
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