第2話
ぱちりと目を見開くと、眩しい陽光が一挙に視界を覆った。
朧気な影が。人懐っこい甘い声音が意識を掴んで引っ張り揚げた。
「おはよーございまーす」
これで毎日目覚められたらどれだけ目覚めの善いことか、心の底を撫でられているような心地よい響きだ。
おまけになんだかフローラルなよい匂いが…。
「…え、何これ」
柔らかい何かの上でおれは目を覚ました。
それは、肌色ですべすべしていて人肌のように暖かい。どことなく蠱惑的な甘い香りがする。
おまけに、そこからの眺めはふくよかな山が二つと真っ青な空が広がっている。
…これは、なんだ?おれの辞書にはない物体。
その山からひょっこりと、少女が現れた。ばっちりと目があった。
「よかったですね、私に膝枕してもらえるなんて普通じゃありえませんよ?」
まるで自分からあふれる可愛さを理解してるかのような振舞いをしながら、あざとくおれを見下ろした。
それで初めて自分が膝枕されていることに気が付いたのだった。おまけに目の前の二つの山は紛れもなくパイ乙だということが理解できた。
「うわっ!?」
瞬間、体が跳ね起きた。
器用に二つの隆起を回避しながら、体幹を捻転させて体を左へと反射的に向ける。
先ほどの、心配そうな顔を浮かべていた少女がそこにはいた。
状況が理解できずに周囲を見渡すと、駅から最寄りの公園であることに気がついてそして、そこにチンピラの姿はない。
「あれ、あのチンピラは?」
ずきっと少し左顎に鈍い痛みを感じながらも可愛げのある少女に問うた。
「騒ぎになるとまずいからって取り巻きが止めて逃げていきました。もぉ、大変だったんですからね?わざわざ私が意識の朦朧としたきみを無理やり引きずって公園まで運んだんですからね?感謝してください」
可愛らしく小首を傾げて、肩を竦める彼女は思ったよりも小柄で幼気な女の子だった。
こんな女子がなんでおれなんかと話しているのやらと考えていると、徐々に思考が鮮明になってきて先ほどまでの状況を思い出し、ふつふつとおれの中に怒りが込み上げてきた。
「…ざけんな。いきなり抱きつかれた挙句意味も分からずヤンキーに殴られた男子高校生の気持ちを考えろ!」
「いきなりわけも分からずヤンキーに絡まれたピチピチのJKの気持ちも考えてくださいっ!だって、怖かったんですもんっ!」
涙ぐんだ瞳で、必死に訴えかける彼女は非常に庇護欲をそそった。言葉でこそ対立してはいるものの、彼女のいうことも確かだ。
気迫こそないが、どうしようもない恐怖がそこにあったことだけは彼女の震える両手を見れば一目瞭然だった。
…確かに自分が女子だったとしてあのゴミに絡まれたら怖くてしかたないなと、落ち着いてみると心得がいった。
「あーそのなんだ。ちょっと強く言い過ぎた、ごめん」
「そうです強く言い過ぎです。女の子は繊細なんですから優しく扱ってください」
「デーモンコアみたいに優しく丁重に扱うことにするよ」
「?…よくわかりませんけど、確実にそれ危険で危ない何かと私を結びつけていますよね?」
「さぁな」
「あの。名前聞いてないんですけど」
「言う必要がないだろ。どうせ用がすんだらおさらばするんだろ、この社交辞令みたいな会話を済ませた後は」
ちょっとやそっとでは個人情報は渡すまい。知らない人には名前とかいっちゃダメだって2chに書いてた、僕見たもん。
その人、コテハン本名だったけど。
「いいから名前言ってくださいじゃないと女の子の太ももに興奮する変質者に絡まれたって通報しますよ。地味にさっき私のおっぱい見てましたし?示談はしませんよ?ちゃんと前科前歴ついちゃいますよ?それでもいいんですか?」
怖い怖い圧が凄い。
クマムシが一発で悲鳴上げて潰れるレベルの圧、これにはどこぞの利権団体もびっくり。
かくして漢、月島えいとはその圧力に屈服せざるを得ない。しかしおれはMじゃないんだが、可愛い子に詰め寄られるとそれはそれでなんか悪い気はしない…はっ!?正気を保て、おれはMじゃない。おれはMじゃない。おれはMじゃない…ふぅ。なんだろう、かかとで踏んでもらっていいっすか?
「えー、はい。月島瑛斗です」
あっけなく折れたおれにふふっと微笑を浮かべながら口元に手をやって、なぜか少し嬉しそうに少し座る距離を詰めてきた。
なんだこいつ無駄に近い。
「普通ですね、名前」
「男(あだむ)とかじゃなくて悪かったな」
「全くです」
「意味が分からん…」
「高校生なんですね?何年生ですか?」
「二年だけど…なにこれ職質?」
これあれだろ、あとからアルコール計られるやつだろ。鞄のなか見させて?とか免許書ある?とか言われて気づいたら留置所にいる。公然わいせつ罪で…いや、なんでだよ。
謎の職質に困惑していると、一切の戸惑いなく目の前の少女はにぱぁっと嬉しそうに笑みを浮かべた。
「じゃあ、私の先輩ですね♪私一年なので」
「知らねーよ。おれはお前の先輩になった覚えはない。気絶したんだぞ?見ず知らずの女子を流れではあるけど庇って。せめて形だけでも感謝をだな」
「えっと、月島先輩?でしたっけ…ざまあみろです♪」
「鬼か、お前は」
鬼すぎる。こいつのために殴られたのかおれは。正直ちょっとというかだいぶ可愛いとか思ってたけど、こいつは鬼だ。初対面にケロっとここまで言えるくらい肝が座ってたら庇わなくてもあのヤンキーの股間でも蹴り上げて逃げられただろうに。
おれに突如降って湧いた謎の後輩に正直な感想を正直なままに口からこぼした。
「…この、アバズレ」
「ちょっとっ!ひどいっ、初対面ですよ!」
「どの口がいうんだどの口がこの口か、あ?」
「やめてくらはいいたいれふ」
ふにふにとした頬っぺたからおれが手を離すと、彼女は腕を組んでふんっと顔を逸らす。なにやらぶつぶつと言い出した。
「別にお互い様じゃないですか…」
「はぁ?お前それマジでいってんの?はー痛いなぁ。ヤンキーに殴られたところ痛いわ~」
「…な、なんですか!膝枕してあげたじゃないですか。私も申し訳ないとは思ってますけどその、えっちなこととかは」
ジト目で自らのその華奢な肩をを抱いて勝手におれのことを性犯罪者を見るような目で見てきた。
ふざけるな、おれは変態じゃない。たとえ変態だったとしても高貴な変態だ。気品を忘れた覚えはない。
「誰がえっちなことしろっつったんだ。男子高校生が全員えっちなこと考えてるわけじゃねーからな?」
「じゃー何考えてるんですか?」
…普段何考えてるんだ、おれたちって。
顎に手をやり黙考する。
えっと、まずおっぱいだろ。そして次におっぱいだろ?で、最後におっぱいだよな。あ、そうだそうだおっぱいも考えてること忘れてた失礼失礼おっぱいおっぱい。
…うむ間違いないこれは男子のサガ。もといイズマッシュ・サイガ。
「やっぱ、えっちなことしか考えてないかもな」
「…やっぱり」
嫌悪感を露わにした、その美貌でもはやおれを睨んでくる。
いや、おれ殴られたんだけどな。庇ったんだけどな。助けたんだけどな。男女平等ってなんだろう。
そもそもおれ何か悪いことをしたか?生きているという罪を除いて教えて欲しいが、それもこれもこの一瞬だけ。聴く必要もない。
「まぁいいや。殴られたけど、まあまあ可愛い子と話せたってことで警察とか大事にするのもめんどくさいし泣き寝入りしとくよ」
適当に気分が良くなるような言葉をまぶして、おれは早く薬局で湿布か何かを買ってから今日は家で安静にしようと静かに決心した。
「なんですかまあまあ可愛いって、褒めてるつもりですか?それ………えっと、その。あ、ありがとうございます」
なんだ、意外と殊勝なところがあるじゃないかと。
20㎝ほど低い頭に手を伸ばして。
無言で優しく頭を撫でると片目を閉じて如何にもジトーとした不服そうな顔で「もぉ、髪型崩れるんでやめてくださいっ。それと、あまり調子に乗らないでください」と手をべしっと叩かれて逸らされた。
やはり童貞が調子に乗るとろくなことがない。
大人しく2000万溜めて野良猫でも撫でながら老後は過ごそうと勝手に決心した。
「じゃあ、私用事あるのでいきますさようなら」
先ほどまでの応酬はなんだったのか、冷めた態度で逃げていこうとする。
よくわからんやつだな、と内心で思いながらも。おれは、なぜか彼女を引き留めてしまった。
ぐっと華奢な肩を掴んだ。
肩が出ているワンピースだからか生肌が触れていて女性経験の薄い自分には力加減が不安だった。
「まてよ」
おれの呼び止めに、ふわっと振り返る彼女は
「…なんですか、付き合うのは無理ですよ」
「なんで呼び止めただけでいきなりフラれるのおれ」
「で、なんなんですか?何かくれるんですか?」
ぷくっとなぜか可愛く膨れて見るからにしかめっ面の彼女にどうでもいいようなことを。必要ないと分かっていても。
聞いておいたほうがよいような気がして彼女に問うた。
「名前、聞いてないだろ」
「言う必要ありますか?」
「大いにあるな。てか、おれは言っただろ!人に名を尋ねるときは先ずは自分から名乗るって史記にも書いてあるだろ」
とにかく気合いと流れで高圧的な態度で詰め寄ると、なぜか彼女はそれをものともせずまるでじゃれているかのように勝気な笑みを浮かべて可愛いらしく口元を緩ませた。
彼女を見やると、やはり有無の言いようのないほど美人だった。
これではまるで、人々が見上げては感嘆の声をあげるこの公園に雄々しく聳える御神木や雲一つない空の青が背景のようにしか見えなくて…とてもじゃないがおれとは釣り合いそうもないレベルの人間だった。
薫風がおれたちの間を駆けた。
どこか、アンバランスなおれたちの間を、取り持つように流れるは春は葉桜の息吹。
彼女の白いワンピースがはらりと舞って、木々の梢はせせらぎのような音を奏でて揺られる。
その合間を縫って陽の光が彼女の尊い、いたずらな笑顔を照らした。
ああ、きっとおれはこの風景を一生忘れることはないだろうと底知れない予見が胸を高鳴らせた。
「ふふ…嫌です♪」
「…なんでだよっ!先に聞いてきたのお前だろ!」
最悪なゴールデンウィークの始まり。
しかしてそれは、おれの『青春』の始まりだった。
後悔とは不思議なもので、たった一つの出会いさえもが積年の辛みを吐き出すことすらあるほど脆い。
しかして人は、この辛みとどう向き合うのか。
それを、彼らはまだ知らない。
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