第17話 玉を抜いてくれ
イスの谷はすっかり梅雨に入っていた。空は青いが、
イスの谷の南に繁る森の小径に設けられた関では、番人たちが雨を避けてのんびり暇を潰していた。丈六の
関守のロック・ロギンは愛用の四匁半鉄砲を脇机に置き、戸口から外を眺めつつ一心に筆を動かしていた。
「若様、根を詰めすぎますなや」
中年のグールの雑人頭が、白湯の欠け茶碗を持ってきた。
「若僧扱いいたすな」
ダークエルフの関守は
「いんや。バーサにお勤めのダークエルフの旦那がたで、
小屋の隅のグールたちが小さく笑い声を上げた。それは、まだ幼さの残るダークエルフの青年を嘲るような笑いでは決してなかった。
ロック・ロギンの家は谷の南を守るバーサの
「
その父も三年前の戦で死んだ。グールは、どこか懐かしむような眼差しでロックを見た。
ロックはどう答えていいかわからず、長々と嘆息して白湯を啜った。グールは戸口に近づいて空を見上げて灰色の顔を歪め、
「こりゃあ雨はもうすぐ酷くなりますぞ」
ぼつりと呟いた。
「わかるか」
ロックが整った顔を向けた。グールは西の空を指さし、
「へえ、あっちに悪い雲が浮かんでますからな」
確かに黒々した厚い雲が見える。勿論、大雨が近いくらいはロックも承知していたが、この雑人頭を失望させたくなかった。
「なるほどな」
ロックは初めて知ったように感心して大きく頷き、グールは得意げに鼻を鳴らした。
その時、櫓の板木を激しく打ち鳴らす音が小屋の中まで聞こえてきた。
音の拍子に異状を察した小屋のグールたちが、手槍を持って道に駆け出していく。
「ロック様は中に」
「うむ、心得たり」
ロックが鉄砲を取り、
「まだ火蓋は切られませぬよう」
「応よ」
飛び出したグールの一人が櫓台を見上げ、
「
と一声叫んだ。櫓から人影が身を乗り出し、
「南から不審の一名、荷も持たず、旅の
だいたい、旅商人はアンテの市に通うために表の街道を使う。この道を通ることはまず考えられない。
「風体は」
「菅笠に蓑を着て、ようわかりませぬ」
「
グールの雑人頭は呻いて、小屋の中のロックに顔を向けた。ロックが緊張した面持ちで頷き返す。
この時代、沿道には狂暴な野盗山賊が出没するのが当たり前だった。時には村丸ごと盗賊に変じて旅人を殺害し、その荷を奪うことも珍しくない。このため、
やがて、雨の中を人影が近づいてきた。見張りの言った通り、時折蓑を揺すって
「これ、
グールたちが、不審者を取り囲むように立ちはだかった。手槍を立てて敵意こそ示していないが、いつでも打ち懸かれる態度だ。
旅人はゆっくりと菅笠の前を上げた。
「げっ」
顔を覗き込んだグールの一人が変な声を上げた。
「これは、御城代様」
「うむ、役目御苦労」
吸血鬼のクルーガが、にたりと気味悪い笑みを浮かべて雑人たちを見回した。慌てて出てきたロックがクルーガに深々と頭を下げ、
「これは御城代様、このような場所をお一人とは」
震える声で言って、ちらと上目遣いに吸血鬼を見上げた。若い彼は、これほど間近に城代を見る機会など今までなかった。
「御代官の特命である。詮索無用」
「ははあ」
ロックたちが頭を下げる。クルーガは満足そうに頷き、
「先程の皆の動きは見事である。ジャナ殿にもそう申しておこう」
バーサの城主の名を出し、ロックたちは畏れ入るように更に頭を低くした。クルーガは一同の大仰な様に軽く苦笑いし、
「歩き詰めで喉が渇いた。水を貰えるかね」
「へえ、こちらへ」
雑人頭のグールが番小屋へクルーガを誘った。中に入ると、火縄の点いた鉄砲が机に置かれている。クルーガはそれを認め、
「玉と玉薬を無駄にしてしまったか。怪我人を出す前に玉を抜いてくれ」
「はっ」
ロックが鉄砲を持って小屋の外へ出て行った。それを見送りながら、笠も取らずに床几に腰を落とし、
「ロギン家の三男か」
「へえ、去年からバーサのお城勤めをなさっております」
白湯を注いだ欠け茶碗を机に置いて、雑人頭が答えた。
「ふむ、親父殿によう似ている。あれは鉄砲の名手だった」
「へい、御兄弟の中でも一番の生き写しでございます」
「そうか」
答えながら、クルーガはゆっくりと茶碗に口をつけた。外で、ぱあんとロックが鉄砲の玉抜きする発砲音が響いた。
クルーガがエイレンの城に戻るのを見計らったように、谷は低い雲に覆われ雨は本降りになった。
ゲベルとラガンが勝手口まで出たとき、クルーガは
「遅かったな。待ち兼ねたぞ」
「道が混んでいてな」
「首尾は」
「うむ、上々だった」
「そうか。それで『禍神』とやらは何時参る」
「もうイスに入っているだろう」
明日の朝、その者を御覧に入れようと言いながら、吸血鬼は足を拭った。
「今からでも良いぞ」
「今日はもう遅い。もうすぐ日も落ちる」
「事は急ぐのだがな」
「禍神は夜見ぬもの。これも古くからの慣わしだ」
クルーガは立ち上がり、奥へ消えた。
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