第16話 お前は私の好みじゃない

 かつて魔王国有数の商業都市トランドの外町西六条の裏店うらだなにある料理屋『ケゼル・ノラロボン』は、薄紅色に塗られた豊満な裸の女の看板を軒先にぶら下げていた。

 勿論、それは二階にある春画しゅんが専門店の看板なのだが、料理屋の中身もそれに負けないくらいけばけばしかった。壁にも柱にも、所構わず赤や緑の布切れを垂らしていて、店中がひどく趣味の悪い玩具箱おもちゃばこのようだ。もっとも派手なのは飾りつけだけで、入相いりあいの鐘が鳴ったというのに、店内には一人の客もいない。


 西六条通りがそわそわした人ごみと華やかな嬌声きょうせいで湧きたっていたのは、先月までのことだ。魔王討死でトランド城がさっさと開城し、神聖連合のヒマナス共和国軍が入城して人通りはめっきり途絶え、ただでさえ少ない稼ぎは今では底になってしまった。

 夜発やほつと呼ばれる辻の女たちは、見切りをつけてさっさと河岸かしを変えていた。細見さいけん本に釣られて迷い込んでくる田舎者もいなくなった。ましてこんな陰鬱な空模様では、通りは寂れるばかりだった。


 そうしたわけで、この料理屋と春画屋を営んでいる亡命エルフの主人は、大層おかんむりだった。

 この日も彼は、奥の小部屋に坐り込んで整った顔を不機嫌に歪め、短く切り揃えた鈍色にびいろの髪を掻きながらぶつぶつ運命を呪っていた。やっぱり教会前に参拝客相手の小綺麗な小料理屋を出すべきだった。そこなら今も人通りは絶えていない。料理の腕には自信がある。なにしろ、近郊の農家に特別に注文して作らせた香辛料を三十種類も念入りに混ぜ込んでいる。このトランドで、良心的な本場のエルフ風煮込み料理が受けないはずがない。

 畜生、彼は毒づいた。

「何てったって、旦那さん、艶本えほんに限ります」とささやいた大家にも腹が立った。綱紀粛正と称して潜りの賭場を追い出しにかかった共和国軍にも腹が立った。明かりが華やいでいるのは、共和国軍の将兵の相手をする遊郭だけだ。

「糞ったれめ」

 食い物屋の主人にあるまじき呪いの言葉を吐いたそのとき、戸が開いてゴブリンの貧相な給仕が顔を出した。

「変な客が来てます」

「地回りか」

「いえ、生玉子を出せって言うんです」

「うちはエルフ料理の店だぞ」

 主人は怒鳴りつけた。

「何の店だと思ってやがる。壷窯つぼかまもねえと思って馬鹿にしやがって」

「そうじゃないんです」

 給仕は済まなそうに答えた。

「生玉子と丼飯どんぶりめしと醤油を持ってこいって言うんです」

「丼飯だと」

「ええ、エルフ料理はいらないって」

 エルフはとろんとした目を光らせた。

 立ち上がると、急に天井が低くなった。痩せて筋張った体躯からだの長身の男だった。

「戸を開ける前に声をかけろと言ってるだろうが」

 思い出したように声を荒げた。

「声をかける。唾を吐かない。雪隠せっちんから出たら手を洗う。ここはトランドなんだぞ」

 もう一度頭ごなしに怒鳴りつけ、彼は戸をすり抜けた。唇が曲がり、にやりと歯を剥き出しにしたが、ゴブリンの給仕からは見えなかった。


 その変な客は、投げ頭巾に鹿革の袖無しを羽織り、客間の真ん中に腰を据えていた。主人が入ってくると、裂け目のような黒い目が光り、鋭く彼を見つめた。

「お客人、店でそんな下手物げてものを注文されちゃ困ります」

 エルフは不服そうに口を尖らせた。

「うちは真っ当なエルフ料理の店なんでね。それに、あれは野営地でしか出さねえ」

 目が合った。客は顔の皺をゆっくりと膨らませ、白い歯を見せた。

「元気そうだな、ジンバ」

 エルフの上唇がめくれ上がり、笑みが洩れた。それからちょっと肩を竦め、調理台の下から玉子を取り出した。

「まったく、俺の料理を何だと思っていやがるんだ」

 いつもこうだ。戦闘の前になると、このヴァンパイアは決まって大盛りの飯に生玉子をかけて腹一杯詰め込んだものだ。いったいどこの国の奇習なのか、ジンバは知らないし知りたくもなかった。

「新鮮な玉子だろうね」

「うちの玉子は、朝一番に市で買ってきたやつだ」

「ちゃんと殻は洗ってあるかね」

「当たり前だろうが。俺は綺麗好きなんだ」

「結構だ」

 客はあっさり頷いた。


 エルフは腰に手を当てて、黄色くぬめぬめ光る飯を口に運ぶ客を眺めて眉をひそめていた。

「よくもまあそんな気味悪いもんを食えるもんだぜ」

「これがたまり醤油なら文句ないのだが」

「すっ込んでろ」

 奥から顔を出した給仕を怒鳴りつけ、ジンバは大振りの湯呑に水を満たして客の前に置いた。

「それで」

 声を低くした。

「何の用だ、クルーガ」

 生玉子まみれ飯をきれいに平らげて堪能の溜息を漏らすと、クルーガは顔を上げてゆっくり湯呑に手を伸ばした。

「懐かしいな、ジンバ・メッセル。鎧の袖に三つ首紋の合印をつけて、ペルメ河を渡ったころを思い出す」

 国を捨てたエルフの元傭い武者は口を固く閉じ、目を細くして暫くクルーガの顔を見つめた。やがて、

「奥に来てくれ」

 ひっそり呟いた。


「あの作り物の魔族の旦那は、まだ山奥のど田舎で代官をやってるのか」

 溜息よりずっと重い吐息が、エルフの肚の底からこみ上げた。

「知らなかったぜ」

 からだに似合わず、ジンバは几帳面な性格のようだった。台所は埃一つなく、綺麗に整頓されていた。顎を振ってクルーガに椅子代わりの樽を勧め、がたぴしする銭箱の抽斗ひきだしの底から紙巻煙草を引っ張り出して一本をクルーガに差し出し、自分も一本くわえて火打石を擦って麻布の繊維に火を作った。

「ラガンの爺さんとハンの小僧は息災かい」

 煙を吐きながら、ジンバはぼそりと訊いた。

「ああ、ラガンは勘定頭、ハンは城番頭だ」

「あの爺さんが勘定方だって。酷い冗談だぜ。あの爪で算盤玉を弾いてるのか」

 ジンバは面白くなさそうに軽く笑った。それから小さく溜息をくれて、

「連合軍は都を囲んだそうだぜ。噂じゃ二十五万の大軍だそうだ。連合は本気で都を攻め落とす積りだぜ。今頃はせっせと仕寄しよせを造ってるだろう。もう魔王国は終わりだな。なあ、クルーガ、さっきの話だが」

「何の話かな」

「ほら、ペルメの河戦かわいくさだ。何度も言うようだが、ありゃあ」

「わかっている。お前は水が怖かったわけじゃない。鎧の紐が船楯の蝶番ちょうつがいに絡みついただけだ」

「そうさ、本当だぜ」

 ジンバは深々と頷いた。

 その戦いで、泳げない彼は燃え上がる関船のふなばたにしがみつき、背の押付を思い切り蹴り飛ばされるまで助けてくれと泣き叫んだのだ。蹴ったのはクルーガ、それを命じたのはゲベル・グイナンだ。

「絡みついて動けなかったんだ。それにあの川にはわにがいた。人喰い鰐だ」

「ああ、よくわかってる」

 クルーガは詰まらなそうに応じた。ジンバは過去を悔いるように視線を上げた。天井に二人分の紫煙が溜まっていて、ジンバはしばらくそれを見つめていたが、

「何の用だ」

 明日の天気の話でもするような口調で訊いた。クルーガは冷たい目でジンバを眺め、

「『紅い狐』を探してる」

 落ち着き払った声で言った。


 ジンバはぷかりと煙を吐いた。

「知らんね。もう大昔の話だ。俺も今じゃ料理屋の親父なんだぜ」

「なあ、ジンバ」

 クルーガはジンバから視線を逸らさず、ゆっくりと口を開いた。

「私はイスから此処ここに来るまでに、十人の命を奪った。うち二人は運悪くたまたまそこに居合わせた山菜取りの親子だ。空手からてでは帰れない」

 クルーガが紙巻を揉み消して、ゆっくり立ち上がった。エルフはひょいと一歩間合いを取った。すぐにクルーガが踏み出してジンバの行為を無駄にした。吸血鬼の指がそっとジンバの口から煙草をつまみ取って放り捨てた。

 互いの吐く息が臭う不愉快な距離で睨みあいながら、クルーガは横目で調理台の包丁と、二人の手との距離を測った。自分の右手のほうに分があるようだった。

 また一歩、ジンバが後退あとじさりした。彼は壁に背をつけた。

「やめろよ、俺には男色の気はねえんだ」

 エルフが呻くように呟いた。

「安心しろ。お前は私の好みじゃない」

 クルーガは真面目な顔で囁いた。

「男色に至らない友情は貴重だと思わないか」

 それから、

「止したほうがいい」

 押し殺した声で言った。後ろに回したジンバの右手が壁の上で凍りついた。

「その鍋で何をしようというのかね。もう腹は一杯だ」

 ジンバはクルーガを睨みつけ、大きく息を吐いた。

「下手なことをして、共和国軍に睨まれたくねえんだ」

 言い終わらないうちに、ジンバの体がむくむく膨れ上がった。全身の筋肉が膨張を始め、体中の毛孔から針金のような毛が噴き出した。その様を見てクルーガの瞳が金色に輝いた。唇が邪悪に歪み、その奥に鋭い牙が覗いた。

「忘れたのか。俺は吸血鬼の天敵なんだぜ」

 ジンバの長く伸びた口吻から声が漏れた。その声はかすれていて、だから少しも脅かしているように聞こえなかった。

「試してみるか」

 クルーガが面白そうに口を曲げた。

「共和国軍はこの店を壊したりしない。だが、ヴァンパイアとワーウルフが気合を入れてやり合ったら、この店はなくなってしまうぞ」


 そのまま二人は黙って見つめあっていたが、ふいにクルーガがゆっくりと体から力を抜き、わざと背を見せて包丁を取った。目利きするように、片目を閉じて刃先を覗き込んだ。人狼の体がみるみる縮み、クルーガが振り向いたときには、肩を落としたエルフの男がしょんぼり立ち尽くしていた。

「言ったじゃねえか。俺はもう料理屋の」

 クルーガは、俎板まないたへりを包丁の峰で軽く叩いた。

「ただの料理屋の親父か。本気で過去から逃げられると思っているのか」

「だいたい、どうして『狐』と会いたがるんだ。昔を懐かしんで一杯ろうってのか。あいつらは疫病神だぜ」

「他には頼めない仕事だ」

「本気なのか。鼠退治を頼んだら、家丸ごと焼き払う連中だぞ」

「承知している」

「なあ、わかってくれ。隠したり嘘をついたりする気はねえんだ。連合軍の密偵が感づいて俺の前歴まえを洗ったら、俺は河原で火炙りにされたほうがましな目に遭うんだぞ」

 エルフは悲しそうに瞳を歪めた。

「俺は、この店に全財産を投げ出したんだ。戦場で命を切り売りして作った金を全部だ」

「女郎と酒と博打で気前よく捨ててしまった残り全部だろう」

「そうだよ。だからって、あんた、俺にカルフィールに帰れって言うのか。奴らがそうしようと思えば、俺は簡単にそうなるんだぜ。そうなれって言うのか」

「頼れるのはお前しかいないんだ、ジンバ」

 クルーガは懐から銭縒ぜにさしを五束取り出し、そっと小机に並べた。

「わかったよ。連絡つなぎをつけてみよう」

 エルフはしかつらで鼻を鳴らし、小さく頷いた。それから、

「丼飯と生玉子で十五文だ。残りは仕舞ってくれ」

 銭縒の束をクルーガに向かって押し出した。

「なあ、どうしてそこまであの魔族の旦那に肩入れしてるんだ。あんたもラガンもハンも」

「さて」

 押し戻された銭縒に目もくれず、

「あるとすれば、あの男に借りがあるからだろうな」

 クルーガは自らをあざけるようにせせら笑った。

「あんたに言われて思い出したよ」

「何をかね」

「ゲベルが俺を当番兵に傭った理由さ。聞いてるか」

 クルーガは肩をすくめた。

「いいか、ゲベルが俺を傭ったのは、俺がエルフのくせに料理の前に手を洗うからなんだ」

 クルーガは返すべき言葉が見つからず、改めてジンバを見つめた。

「そうさ。俺の料理の腕じゃねえ。手を洗うから傭ったんだ」

 ワーウルフのエルフは、その場にいない誰かに犬をけしかけるみたいに片手を振り上げ、

「許せねえ」

 本気で吐き捨てるように言い放った。


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