第15話 月見酒でございますか

 その夜、奥殿脇に建てられた離れの濡れ縁で、ゲベルは湯呑の酒を傾けていた。傍らの土器かわらけに盛られた杉枝から煙が立ち上っている。二十八夜月みそかつきを眺めていたゲベルに気づいた社の神人じにんが、親切で蚊遣かやりとして用意してくれたものだ。

 最初、ゲベルは断ったが、相手も、

「これも客人まろうどへの接待でござる」

 と聞かない。さらに酒肴まで用意してくれた。煙草を一服して部屋に戻ろうと思っていたところを、図らずも月見をする羽目になった。

(これはこれで風流であるか)

 濁り酒を嘗めながら薄く笑って月を眺めていると、縁側の板を踏む音がする。目線を向けると、浴衣姿のナインがこちらに気づき、浴衣の襟を固く閉じて静々と進んでくると隣に坐った。

「風呂か」

「はい。月見酒でございますか」

「うむ、まあな。エルフの風呂はどうであった」

 ゲベルは気安く声をかけた。

「あのような風呂は初めてでございました」

 堕天使が熱で上気した顔を傾けて微笑んだ。

「あれは、魔王国には滅多にないものであるからな」


 この社の風呂は石室いしむろ風呂という。エイレンの城の湯殿のような温泉や教会が施行で行う湯蒸ゆむしより古式な方法だ。入浴する者は、土蜘蛛のおさけられたと伝わる大きな塚の玄室に入る。中は濡れた薬草が厚く敷き詰められ、壁一面に立てかけられた柴に火がつけられている。入浴者は草のしとねに横臥し、薬草から上る水蒸気で体の邪気を抜く。エルフの故地カルフィールでは、川のほとりにこのような石室がいくつも並び、貴賤問わず招き入れて邪気払いするという。


「なかなか良いものであろう」

「すっかり毒気が抜けたようで身体が軽く感じます。しかし、薬草の匂いがつうて」

 ナインが浴衣の袖に鼻を寄せて匂いを嗅いだ。

「はは、誰でも最初はそう思う」

 笑いながら、

「ほれ」

 あゆの味噌焼きが盛られた皿を押し出した。

「社の神人が酒の肴に持ってきてくれた。お前も喰らえ」

「かたじけのうございます」

「だが、酒はならぬ」

 ゲベルの言葉に、

「わかっております」

 ナインはほんの少しっとして整った眉を寄せた。

 ゲベルは煙草をくわえ、

「堕天使が両性具有であることは存じていたが、お前がそこまで女子おなごのような身体つきとは思わなんだ」

 鮎を取ろうとしたナインの箸が一瞬止まった。

「儂が知る堕天使の中には、脱いでも男子おのこと変わらぬ姿形の者もおったからな」

肉置ししおきには個人差があります故」

「それは知らなんだ」

 ゲベルが感心したように呟いた。

「普段は晒を巻いていた故、殿様もご存じなかったのでありましょう」

「そうだったのか。エイレンの湯殿では仰天したぞ。それは済まぬことをした」

 ゲベルが両手を膝に置き、深々と頭を下げた。

「いえ、お気になさいますな」

 ナインが気恥ずかしそうに俯き、鮎を取って口に運んだ。しばらく口をもごもごさせていたが、

「それに、あの」

 蚊の鳴くような声で言った。

「何だ」

 ナインは逡巡しゅんじゅんするように身をよじっていたが、思い切ったように微かに顎を上げて上目遣いにゲベルを見て、

おもい者の性別で、我らは身体付きも骨相こっそうから変化へんげいたします。例えば陰の気が高まれば、身体も自然じねんにそのように」

 ゲベルはナインと初めて会った頃を思い出した。確かに、そのころのナインはもう少し肩が張って険しい顔をしていたような気がする。

「それはつまり」

 ゲベルはナインの顔をまじまじと見つめ、煙草の煙を長く細く吐いた。

あだし相手がいて、その者は男か」

「はい」

 ナインの眼の端が朱く染まった。

「そうか」

 ゲベルはぱんと膝を打ち、

「その羨ましい男はどこの誰だ。何なら儂が口利きしてもよいぞ。何せこれでもイスの里の代官だからな」

 からからと笑った。

「え」

 ナインが目を見開き、口をあんぐり開けた。ゲベルははっとした顔をして、

「ああ、そうか。これは無粋な物言いをした。色恋の道に口を出すなど野暮であった」

 一人合点してうんうんと頷き、

「危うく馬に蹴られるところであった。忘れてくれい」

 煙草を揉み消し、娘の成長を見守る慈父のような目つきでナインを見た。が、ナインに冷めきった半眼で見返されていることに気づいてぎょっとした。

「どうした。何か悪いことを申したか」

「殿様」

 三途の河原に吹きすさぶ風がよく似合う声が、ナインの唇から忍び出た。ゲベルの身体が理屈ではなく、本能で震えた。

「ど、どうしたのだ。悪かった。儂が悪かったから機嫌を直せ」

 何が気に障ったのかわからない。だが、ここは謝らなければ殺される。ゲベルの直感がそう告げていた。

 ナインの手が縁に置かれた酒の瓶子を奪い取った。

「あ、おい」

 ゲベルが止める間もなく、ナインはごくごくと瓶子を呷って荒く息を吐き、

「私がおもっているのは」

 ナインが酒で真っ赤な顔をゲベルに向けた。

 ゲベルは息を詰めた。

おもっている者は」

 ナインが繰り返した。

「う、うむ」

 空気が鋭い刃のように感じ、ゲベルは身動きができない。ただ静かに、裁きを待つ科人とがにんのようにナインの言葉を待った。


 その時、

「あら、これは殿様ではございませんか。それにナイン殿も」

 明るい声が庭から響き、殺気に溢れた静謐が一瞬で溶けた。

 振り向くと、浴衣を肩に引っ掛けたスフィンクスのシャイラが、長い金髪を春の夜風に靡かせて立っていた。

「おう、シャイラか」

 ゲベルが殊更に明るい声で答えた。緊張から解放されたせいで、声が裏返った。

「どうした。寝ておったのではないのか」

 シャイラたちスフィンクスは、特別に用意された一室で寝んでいるはずだった。

「それが、厠に立って戻る途中、美味しそうな匂いがしましたので」

 ついふらふらと来てしまいました、と金髪のスフィンクスは恥ずかしそうに舌を出した。

「おお、これか。汝も参れ」

「かたじけのうございます」

 軽やかな足取りで縁側に上がり、ナインと反対側に坐り込んだ。

「これは見事な鮎でございますね」

「うむ。社の者が差し入れてくれた。お前もどうだ」

「いただきましょう」

 一尾摘まみ上げて、一息に口に入れてばりばりと噛み砕き、

「よい鮎でございますね」

 本当に嬉しそうに眼を細めた。

「そうか」

 ゲベルも何故か無性に楽しくなり、

「さあさ、もっと喰らえ」

「有難うございます。ふふ、まさしく杓子果報しゃくしかほうでございますね」

 シャイラが遠慮の欠片もなく皿に手を伸ばした。

「風呂はどうであった」

 シャイラは途端に不愉快そうに鼻に皺を寄せた。

「やはり、あの風呂は好きません。熱が体にこもっていけませぬ」

 スフィンクスは汗のせんが少ない。

「でも、外の泉は気持ちようございましたよ」

「そうか。まあ、無理に入らずとも良いぞ」

 ゲベルは愉快そうに笑った。

「ところで」

 シャイラが指についた味噌を舐めながらゲベルに顔を寄せ、ささめくように、

「ナイン殿と何を話しておられたのです」

 言われてゲベルはそっとナインを盗み見た。だが、堕天使は坐り込んだまま、魂が抜けたように首を傾けてすぴすぴ寝息を立てている。

 ゲベルは鉛のように重い溜息を洩らした。

「さて、何だったのだろうな」

「はあ」

 シャイラは暫く考えてみたが、すぐに気にすることをやめて次の鮎に取り掛かった。シャイラはあれこれ考えるのが苦手なのだ。


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