第10話 儂は男色の気は全くない

「そ、そうだ、お前もささなど食らえ」

 ゲベルは慌てて体ごと向きを変え、徳利と湯吞を取った。

「いただきましょう」

 ナインは涼やかな所作で湯吞を両手で受け取り、ゲベルの震える手で注がれた酒をくいと呷った。思わずゲベルはその喉に見入ってしまった。

「なかなかの上酒でございますね」

 本当に嬉しそうに目を細めた。

「そうか。台所から盗み酒した甲斐があったな」

「ご自分の城で盗人ぬすっと働きなされましたか」

 ナインは面白そうに喉を鳴らした。

「うむ」

 ゲベルは意識して遠くの山に目をやり、生返事を返した。ナインに顔を向ければ、今度こそ視線を悟られてしまう。何を悟られるのかゲベル自身もよく理解できなかったが、兎に角、今のナインに目を向けるのは煙硝蔵で屁に火を点けるより危険だ。どう危険なのかうまく説明できないが。


 ナインもゲベルに倣って川向こうの山並みと瞬く星を眺めていたが、ふいに、

「殿様」

 ぽつりと呟いた。

「な、何かな」

「殿様は人造魔族でございますね」

「うむ」

 ゲベルは己れの額の魔石に触れた。


 数十年前、人的資源の不足、特に有能な前線指揮官の損耗に悩んだ魔王軍は、人造人間技術の粋を尽くして複製した魔族の脳に、過去の名将や戦上手の仮想人格を転写した魔石を埋め込んだ。彼らを養育し、教育を施し、軍に配すれば、魔王軍は知将勇将に率いられた無敵の軍団になるはずだった。

 はずだったというのは、そうは問屋がおろさなかったからだ。人格や能力というものは先天的なものより、育った環境や経験に左右される。将来の古今無双の英雄と期待された人造魔族たちの大半が凡庸で、期待していた成果が上がらなかったため、魔王軍総司令部は人造魔族の計画を中止した。既に製造された人造魔族たちは廃棄処分されたりはしなかったが、そのまま普通の魔族と同じく軍に残るか官吏として奉職することになった。今から二十年ほど前のことだ。


「儂も十年前までは魔王軍の中央戦略予備軍におったが、上意によりここの代官を拝命したわけだ。まあ、いい加減齢を取って軍隊勤務もつうなっておった故、渡りに舟だと思ったのだがな」

 とんだ泥舟だった。

 魔王エメルダスがようやく魔王国全土の統一を果たしたのが二年前。それまでゲベルは各地で頻発する一揆や反乱の鎮圧に駆り出され、年の三分の一はイスの谷から離れて戦地で過ごした。

「やっと楽隠居できると思ったらこのざまだ」

 ゲベルは自嘲するように薄く笑った。

「まあ、こんなものだ。人生とは思い通りにはいかぬものよ」


「ところで」

 湯のせいか酒のせいか、目の端を赤く染めたナインが、話し終えたゲベルに日時計の針のようにぴしりと通った鼻梁を向けた。

「殿様の仮想人格とは、いったい何方どなたなのです」

 いつの間にかナインは手酌でり始めている。酔ったのかれた物言いだったが、それが却ってゲベルの口をなめらかにした。

「知らされておらん」

「それはまた奇なること」

「仮想人格の名を知ると、心変わりするらしくてな」

 発狂するという意味だ。自我がまことに己れのものか信じられなくなり、精神が耐えられなくなるのだという。

「知りたいとは思われませなんだか」

「いや、特には」

「何故でございます」

 琥珀色の瞳が据わっている。ナインは明らかに酔っていた。

「知っても詮無いことよ。そやつと儂は全くの別人。それに仮想人格の名を記した書を収めた王立公文書庫も焼け、もはや知る術もない」

 王立公文書庫は、魔王国代々の諸記録を収めていた石灰いしのばい文庫だ。蠣殻かきがらを厚く塗った二重の壁に囲まれた耐火耐震倉庫だったが、十五年前に都を襲った大火で焼け落ちている。

「そんな」

 ナインは悲しげに眉を寄せた。

「儂の人格はここにある」

 右手の中指の腹で、額に半ば埋め込まれた魔石を軽く叩いた。

「そういう意味では、儂はオートマトンと同類よ。奴らも魔石に刻まれた呪で動いておる。ティゲルらホイル・デーモンや、鍛冶場で旋盤を回したり、ここの湯を汲み上げている喞筒そくとうを動かしているオートマトンと変わらぬ」

「まさか、そのようなはずはございますまい」

「オートマトンは魔石に刻まれた呪の指令で動く。儂も、この額の石に『人らしく振舞え』と命じられて動いているだけの肉人形に過ぎぬかもしれぬ」

「まさか」

 ナインが眼を見開いて声を詰めた。だが、ゲベルは遣る瀬無く笑い、

「そのような存在が、己れに仕込まれた人格の由来を知りたがるなど、滑稽の極みと思わんか」

「そんな悲しいことを申されますな」

 ナインの言葉に顔を向けたゲベルはぎょっとした。琥珀の瞳に泪が浮かんでいる。絡み上戸なのか泣き上戸なのか、果たしてこの堕天使はどちらなのかとゲベルはいぶかった。

「あ、いや、儂は己れを不幸とは思っておらぬぞ。今様にも『遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん』と申すであろう。一度ひとたび生を享けたならば、精々楽しまねば損というものよ」

「その割には、戦暮らしばかりでございますね」

「うむ。まったい浮世は儘ならぬものだ」

「城の者どもは皆、殿様は戦狂いの武偏者ぶへんものと噂しております」

「え」

 ゲベルは目を剥いた。

「違うのでございますか」

「当り前だ。誰が好き好んで戦したがると思うか」

「ならば、暗黒天ヴィスワ・ガーに生涯戦場無敗を祈念して不犯ふほんを貫いているという話は」

 思わぬ衝撃にゲベルは視界がくらくなった。初めて知ったぞ。

「そのような噂があるのか」

「皆、そう言い交わしております」

んぬるかな。そのように思われておったとは」

 足許の地が割れ、天が落ちてくるかと思った。

いわれのない流言じゃ。本気にいたすでないぞ」

「しかし、殿様は女子おなご一人いちにんも近づけておられません。かといって、見目良き稚児を玩弄がんろうしている御様子も見られず」

「あのな」

 ゲベルは絶句した。ナインの妄想力が暴走している。

「まさか、髭達磨の醜夫しこおが御好みでございますか」

 ゲベルは頭が痛くなってきた。

「よいか、ナインよ。二つ申し伝える。大事なこと故、心して聞け」

「は、はひ」

 ナインがしゃっくり混じりに返事して慌てて背筋を伸ばした。ゲベルは酔いどれた堕天使に向き直り、右手の甲を見せて親指と人差し指を立てた。

「まず一つは、儂は男色の気は全くない。よいか」

 親指を折った。ナインがこくりと頷いた。

「二つには、儂はもう齢だし、見ての通り女子おなごに心を寄せられるような面相ではない。故に、女子おなごと床を共にせぬだけだ。できぬと申したほうが正しいがな」

 ナインは疑わしそうに上眼遣いに凝視している。その眼力めじからに抗うように、

「了簡したか」

 語気を強めて言った。

「それでは」

 ナインは答えるかわりに、忍びやかに声を抑え、

「肉欲から解脱し寂静じゃくじょうの境地に至ったわけではないのですね」

「当たり前だ」

 むしろ大好物です、と言い返そうとして、ゲベルは言葉を呑み込んだ。ナインの様子がおかしい。ナインがうずうずと笑い声を立てて、すっと立ち上がった。幾つもの波紋で湯面ゆおもてが揺れる。

 ナインがめすの顔でゲベルを見下ろしている。より正確に言うと、獲物を前に舌舐めずりしている雌豹めひょうかおをしている。ゲベルは体中のあなに氷を詰められたように戦慄した。こんなナインを見たのは初めてだった。

「肉の興味がないわけではないと知り、安心いたしました」

 呂律ろれつの回らぬ舌で言いながら湯帷子の紐を解いた。帷子がするりと落ち、冴え冴えとした星の光を受けて、青紫色の裸身がゲベルの前に立った。

「お、おい、待て」

 ゲベルの言葉に、ナインは少し悲しそうに顔の疵に手を当て、

「やはり、この刃物疵がお気に召しませんか」

「い、いや、そうではない」

 ゲベルはおののきを隠せなかった。ナインの向う疵のせいではない。ナインの裸形の凄絶な美しさと、それ以上にへそまで反り返った見せ槍だ。ナインは堕天使、両性具有者だ。ついていて不思議はないが、歴戦のゲベルが恐怖するほどの大業物だった。

「ならば」

 ナインは口角を上げて嫣然と微笑みなから間合いを詰めると改めて膝を折り、ゆっくりと顔を近づけた。

「お、おい」

 ナインは押し止めようとするゲベルの手を取って自分の乳房に押しつけた。しっとり濡れて重い乳房だった。その柔らかさに、ゲベルは不覚にも文字通り錯乱して思考が粉微塵になった。

「うふ」

 濡れた唇が迫ってくる。酒臭い吐息が顔にかかる。ゲベルは凍りついたように動けない。

「やめよ、落ち着け」

 言いかけたゲベルの口を、ナインの唇が塞ぐ。歯の間を鋭い刃のように易々と突き抜け、ナインの舌が侵入した。太くうねる蛇のように、ナインの舌がゲベルの口中を蹂躙する。

「おい」

 口を塞がれたままゲベルは何とか声を上げようとしたが、その声は情けないほど小さくかすれていた。

「黙って」

 ナインはそれだけ言って、再び行為に没頭した。


 それからどれくらい経ったか。満足したのか、ようやくナインは糸を引く唇を離して溜息をついた。その溜息は、少しも失望した溜息には聞こえなかった。

「ふふ」

 ナインの腕がゲベルの頸に巻きつき、そのまま身体が押しつけられた。その柔らかさとしなやかさに、ゲベルは改めて混乱した。

「これ、やめよ」

 ゲベルは拒絶しようとしたが、ナインの裸身に触れるのは躊躇われた。触ったら最後、理性のたがが外れそうだ。ナインは崩れるようにゲベルの胸に上半身を預けてきた。ゲベルはナインの髪の匂いを嗅いだ。温泉の硫黄の臭いがした。

 ゲベルは当惑して天を仰いだ。いくらなんでも、家中の者と肉の関係はまずい。家中の結束を乱すことになる。今まで女を近づけなかった理由の一つには、こういう彼自身の職業規範もあった。だが、それも今や使用済みの鼻紙より簡単に破れそうだ。既に股間のゲベル自身が下帯を突き破る勢いで鎌口をもたげている。

「ええい、落ち着け、まずは落ち着くのだ」

 その台詞は果たしてどちらに言っているのか。ゲベルは堕天使の身体を押し戻そうとその肩を掴んだ。だが、ナインはぐったりしたように動かない。不審に思って顔を覗き込むと、ナインはゲベルの胸に突っ伏すようにして、すうすう寝息を立てていた。

「何だったのだ」

 ようやくナインが寝入っていることを悟り、絵に描いた餅に騙された犬のように情けない顔でゲベルは呻いた。

「まあ、こんなものだな」

 溜息をひとつくれ、ゲベルはどうやってナインを部屋に運ぶか思案に暮れた。


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