第9話 里はよいものだな
部隊長たちから提出された注文状に目を通し、添書きを記入して判を押し、ようやくゲベルは雑事から解放された。代官所を出ると、二の丸から微かに笑い声が聞こえてくる。兵たちが酒盛りをしているのだ。ゲベルは暫くその声に耳を傾けていたが、ふいに四の丸から響く槌音に気づいた。
「まだやっておるのか」
ゲベルは夜風に吹かれながら、ゆらゆらと四の丸の鍛冶場に足を向けた。
エイレン城の鍛冶場は、本丸北二之門の手前にある。高い煙突を備えた半地下の掩蓋壕で、中に入ると凄まじい熱気の壁にぶつかるような気がした。鋭い
「精が出るな」
ゲベルの声に、半裸のキュクロプスが身を起こして振り返った。
「殿様」
七尺はありそうな単眼の巨人の青色の瞳がゲベルを見下ろした。灰色の髪を後ろで束ね、筋骨逞しい空色の肌が汗でぎらついている。
「うむ、皆、夜中まで苦労」
「ヌアダよ、余り無理をするなよ」
ゲベルは鍛冶頭のキュクロプスに話しかけた。ここには彼の他にグールや亡命ドワーフの鍛冶師が詰めていて、塩を嘗めながら刀槍や火器の製造と修理を行っている。
「なんの、敵中をはるばる突破してきた殿様に比べればこれくらい」
ヌアダが巨きな目を細めて笑い飛ばすように言った。
「そうか。だが、根を詰めすぎるな」
ゲベルの言葉に、ヌアダが大きく上体を傾けて頭を下げた。
「そうだ、汝らが作った信管であるが」
ヌアダがさっと目線を上げた。
「マレイの申すには、不発率は二割を切っておったということだ。戦場が泥深い地であったことを考えれば、上々と言わねばならぬ」
「有難い御言葉でござるが」
ヌアダがあまり嬉しくもなさそうな顔で応じた。
砲弾の信管といっても精巧なものではない。木栓に導火線を通しただけの構造で、砲手が勘で導火線を適当に切って木槌で砲弾の穴に叩き込む。発射の際に玉薬の爆発の火が導火線に燃え移り、飛びながら燃え続ける火が砲弾に仕込まれた炸薬に至ることで炸裂する。
うまく導火線を切れば弾着前後に破裂するが、長すぎると地中深くめり込むか転がり回った挙句に爆発して砲弾の破片を撒き散らす。
「やはり、泥で信管の火が消えたのでござろうか」
この手の信管は湿気が大敵だ。
「導火線を
「うむう」
途端にヌアダが難しい顔をした。
「考えすぎぬほうがよいぞ。下手に考えてもよい知恵は浮かばぬと申すからな」
言いながら、奥に足を向けた。八斤砲が半ば分解された状態で並んでいる。その横に並ぶ大砲に視線が止まった。その中でも小さい砲の前に立ち、
「鹵獲した砲だな」
「左様。それは大公国が使う騎兵用の六斤砲でござる」
十字路の戦いで、ゲベルは敵からこの六斤砲四門と十斤砲三門を奪い、全て持ち帰っていた。
「どう思う」
ゲベルの問いにヌアダはゆっくりと砲身を撫で、
「我らの砲より薄く軽く作られておりますな。行軍や戦場での展開にはこちらのほうが有利でござろう」
「うむ」
「ただ、この砲身長と強度では装薬も少なく、射程が短うござる」
「だが、こちらのほうが数を揃えやすい」
勘定頭のラガンの試算によると、製造にかかる銭は三分の二という。
「しかし、我らはこのように軽い砲を鋳造した経験がござらぬ」
ヌアダは、そこで言葉を濁して黙り込んだ。魔王軍では八斤野砲、十二斤要塞砲、二十斤攻城砲の三種類の火砲しか製造していない。
「外から腕の良い青銅の鋳物師でも呼べればよいが、今はそれも儘ならぬからのう」
ゲベルも唸り声を上げた。
「やむを得ぬ。魔王様御討死で戦力を充実せねばならぬ。まずは敵の砲も使えるようにしておけ。
「承り候」
「それとな」
大公国の騎兵砲に手を置き、
「多少重くなっても構わぬから、これと同じ六斤の短加農を
ヌアダが怪訝な顔でゲベルを見つめた。
「刻がかかり申すぞ」
「構わん」
「何門、
「差し当たり一個小隊分三門試作せよ。出来が良ければいずれ数を増やす」
「八斤砲と鹵獲砲の整備の後でよろしうござるか」
「構わん。だが、今日はもう休め。明日からも
鍛冶場を出ると、夜深く
「ひと風呂浴びて寝るか」
明日も忙しい。早く寝てしまいたかったが、泥と埃と垢まみれの体で寝たら、明朝確実に下女たちに文句を言われる。下女といっても城には夫に先立たれ身寄りのない寡婦しかいない。皆、よく働くが揃えたように逞しく
城の湯殿は四の丸の川側にある。この土地は貧しく痩せているが、温泉だけは豊富にある。この湯泉は城の普請中に見つけた。最初のころは露天だったが、今は掛け流しの内湯になっていて近所の百姓も使える大きな風呂場だ。大風呂にはまだ何人か人が残っているらしく、途切れ途切れに話し声が聞こえてくる。ゲベルは大風呂を避け、板屋根を差し掛けた小さな湯舟を選んで入った。
湯舟の三方は板塀に囲まれ、一方は川に向いている。
「やはり、里はよいものだな」
川向こうの山並みを眺めながらゲベルは大きく溜息をついた。代官所の厨房から失敬してきた徳利の酒を湯呑に注ぎ、ひと口含んだ。疲れた体に酒精が沁み渡る。
肴も
湯の心地良さに、ゲベルの口から溜息とも欠伸ともつかぬ息が漏たその時、後ろで気配がした。振り向くと、湯気の向こうに人影が揺らめいている。向こうもこちらの気配を察し、戸惑っているようだ。
「構わんぞ、入って参れ」
夜遅くまで書き仕事をしていた事務方の右筆だろう。軍勢が帰城したことで、各部署からの報告を整理する書き仕事に右筆は忙殺される。労いの言葉のひとつもかけてやろうかと口を開きかけたとき、山からの冷たい風が湯煙を払った。ゲベルは顎から心の臓が転がり出るくらい驚いた。
そこに立っていたのは馬廻筆頭のナインだった。微かな星明りの下、普段は撫でつけている髪を下ろし、袖無しの
「失礼いたします」
「お、おう」
錯乱一歩手前のゲベルと対照的に、ナインは澄まし顔でさっと掛け湯して、そっと湯舟に入ってきた。
その一部始終を、ゲベルは一杯に見開いた目で凝視していた。堕天使は半陰陽、両性具有者であることは承知していた。普段の
ゲベルはそんな話を耳にする度に、
「そんなものか」
と笑い飛ばしていた。両性具有者に特有の倒錯的な容姿に色気を覚えるほど、ゲベルの性癖は極まっていない、筈だった。この瞬間まで。まさか、首から下がここまで女らしいとは思ってもいなかった。
迂闊といえば迂闊である。ナインがゲベルの被官になってから四年。その間、ゲベルは、この男女定かならぬ堕天使を肉欲の対象としては見ていなかった。
「やっと、人心地つきました」
そんなゲベルの気も知らず、ナインはほっとしたように呟いた。
「こんな夜更けまで大変だの」
堕天使の肢体から目を離せぬまま、ゲベルはもつれる舌を無闇に動かした。
「
「そ、そうか。それは苦労だった」
「殿様はもうお
「う、うむ。鍛冶場に出向いておった。ヌアダとこれからの算段をな」
「そうでございましたか」
ナインが小首を傾げて僅かに微笑んだ。いかん、視線を逸らさねば。だが、ゲベルの目はナインの襟元の柔らかそうな谷間に縫いつけられたように動かない。今まで
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます