第8話 存念を問いたい
三人は意地になって気色悪い笑い声を上げ続けていたが、最初に音を上げたゲベルが黙り込んで新しい煙草をくわえた。
「吸いすぎでござるぞ」
ラガンが詰るように眉を
「
灯明に顔を寄せ、魚油の
「クルーガよ、大手で申していた懸案とは何だ」
「アンテで揉め事が」
クルーガはイスの南にある城の名を告げた。
「またか。今度は何か」
ゲベルは
クルーガが言うには、アンテ郷北のオゴーリ村に住む百姓が、郷境いの小川を越えて、エレイン郷ホフテ村領分の草地に牛を放したという。それを見つけたイグラという百姓が、これを捕えてホフテ村の自分の家に持ち帰った。
よくある境界侵犯だが、ゲベルが呻いたのは別に理由があった。オゴーリ村によるこの手の
マサイ山に良質な硝石鉱が見つかり、イスの谷は大きく変わった。硝石は火薬の重要な原料のひとつである。この地は、古書に地獄谷と記されたくらい硫黄が豊富だったため、魔王国政府はここに火薬の製造所を構え、その安定供給と防衛のため、大量の移民を送り込みゲベルの一党を代官として遣わした。だが、谷にはそれ以前から領主がいた。大悪魔エンドロスを祖に持つというアマド家である。
当初、ゲベルとアマド家の関係は良好だった。ゲベルは開発領主で貴種でもあるアマド家に敬意をもって接したし、当主ガイラス・アマドは祖霊に奉仕する半僧半俗のアーク・デーモンで、温和で穏やかな人物だった。雨寄せや予見、
だが数年前、ガイラスの嫡男メナス・アマドが軍を辞して都から舞い戻ってきたことで状況が変わった。身の丈七尺半の偉丈夫で力は三十人力、大薙刀の遣い手で相撲組打ちで負け知らずという豪の者である。だが、性格は高慢横柄、ついには父親を差し置いて城の差配まで口を出し、今では城兵も息子の指図しか受けぬという。
アンテ郷の百姓の多くは土着の魔族だ。入植者を面白く思っていない者も多い。そういう連中がメナスに焚きつけられて、様々な嫌がらせをしている。今回の軍勢催促にも応じず、アンテは一兵も出していない。そのせいで、他の四郷に無理を強いる羽目になった。今では他郷の百姓の
オゴーリ村は詫びを入れてきたが、イグラもホフテ村の者たちも許さなかった。オゴーリ村の者たちはイグラの態度が頑なであると知ると、夜に大勢で押しかけ、彼を袋叩きして牛を取り返した。
「なんと」
ゲベルは僅かに不愉快そうに目を細めた。これまでも揉め事は何度もあった。だが、暴力沙汰になったのは初めてだ。村合戦に発展してもおかしくない。
「それで、イグラとやらは無事か」
「命は大事ない。ただ、杖の助けなしで歩けるようになるには三月はかかるだろう」
「死ななくて本当にようござった」
マンティコアのラガンが、思い出すように言った。
「イグラが死んでおれば、我らも抑えきれなかった」
「どうせ、おぬしらも穏やかに
「まさか、我らは優しく説き伏せたぞ」
クルーガが不満そうに答え、ラガンが大きく肯いた。
「抜かしおる」
ゲベルは鼻で笑った。かつてクルーガもラガンも戦地では様々な名で呼ばれたが、優しさを感じさせるようなものは一つとしてなかった。
「それで、明日の朝、ホフテ村の主立つ者どもが、殿に訴えに参る」
「え」
ゲベルは危うく煙草を取り落としかけた。
「それまで我慢せよと申し付けた」
それで村人たちも、やっと家に帰ったという。
「今日は
ゲベルは、ホフテ村の村主や百姓たちの顔にどこか険を感じたことを思い出した。
「
だが、ラガンは大きく欠伸をくれて横を向いてしまった。クルーガは黙り込み、何の反応も示さない。この二人はいつもこうだ。牛争い程度で頭を悩ませたくないのだ。だが、事は重大である。
「それで、この仕置きを如何にすべきと思う」
ゲベルは窺うように尋いた。
「下手人を探し出し、
「それは難しいな。イグラが申すには、連中、身許を隠すために覆面をしていたようだ。それに、アンテ城のアマド家が、探索を許すわけがない」
密偵を放って露見でもしたら更にややこしくなる、とクルーガは言った。
「しかし、蔵から薬代を出しても村の者どもは納得すまい」
ラガンが呟いた。
「ふむ」
ゲベルは嘆息して立ち上がり、窓際に歩み寄って
この時期、農村は忙しい。正確にいえば一年中忙しいのだが、今は格別だ。田植えが終わると麦の収穫が待っていて、更に雑用が山のように積み重なっている。「夏引き」と呼ばれる
秋に稲を干す
麦は夏場の窮乏を乗り切るための重要な食糧であり、その麦にも年貢が課せられている。麦は皐月のうち、
「むう、あの城め」
遠く南にアンテ城を望みながら、ゲベルは苛立たしさを隠そうともせずに呟いた。アンテの山肌に覆い被さるように造られた山城だ。北へ延びる街道を
「いっそ奪うか」
続いてゲベルの口からぽつりと漏れた台詞に、クルーガとラガンがぎくりとしてその背に向き直った。
「今、何と申された」
ゲベルは円座に戻り、
「あの城が欲しい」
押し殺した声でもう一度言った。
「それは聞いた。殿の存念を問いたい」
クルーガの言葉を受けて、ゲベルは満面の笑みを浮かべた。凶面が一層邪悪に歪む。村では、夜泣きする
「それ、御代官様が窓から笑うておるぞ」
と言って脅す。その
「あの城の麓には市がある。城が手に入れば、市も手に入る。上納金ばかりではないぞ。市の店ごとに
恐ろしいことをさらりと言った。マンティコアが微妙な顔でゲベルを見上げ、
「物騒を申されることよ。戦で
「アンテの
クルーガとラガンは顔を見合わせたが、やがて
「それはつまり、謀反の
「酒に酔うた妄言でござるぞ」
と口々に言った。だが、ゲベルは動じず、
「アンテはバーサと並び、イスの谷防衛の前哨だ。いつ、連合軍が攻め寄せてくるかわからぬ状況で、アンテの
「まさか、証拠もないのにアンテが連合軍に寝返りを打つと決めつけるか」
だが、ゲベルは煙を吹いてせせら笑った。
「どうして寝返らぬと思うのだ」
ゲベルは上目遣いに二人を見た。口許に笑いがあり、灰色の目には暗く怪しい輝きがあった。ヴァンパイアとマンティコアは、ぞっとして僅かに身を強張らせた。
「ならば、兵どもは帰村させず、城に留め置くか」
クルーガが窺うように訊いた。
「無茶を申すな。暴動が起こるぞ」
兵たちは、明朝、恩賞を受け取って家族の許に帰ることになっている。今更取り消せるものではない。
「それにあの城は難攻だ。あの程度の兵数では落とせぬ。それに、城を攻める必要はない」
「と申されると」
「ただメナス一人を除けばよいのだ。あれを消せば後は
「闇討ちでござるか」
ラガンが嬉しそうに口を歪めた。
「これ、何という顔だ」
ゲベルが
「だが、それも難しい」
ただ一人、冷静なクルーガが呟くように言った。
「メナス一人を討つと申しても、あの館は砦の造りだ」
アンテ城は急峻な山城なため、居館は山麓に設けていて普段はメナスもそこに住んでいる。四周に土堀を巡らせ柵を振り、櫓まで備えていて警備の者も多い。
「出歩くことはないのか」
「三日に上げずテカトリア教会に通っておるようで」
暮れ六つごろに館を出て、次の日の明け六つの鐘の前には館に帰るとラガンは言った。だが、メナスは武勇を誇りながら細心でもある。必ず
「急に信心に目覚めたか」
「まさか」
ラガンは小馬鹿にしたようにぶるんと鼻で笑った。
「住職を追い出して若い娘を住まわせて下女に世話させ、通っておるのでござるよ」
「初めて聞いたぞ」
「殿が出陣して二日後のことでござる」
「それで、その娘の由来は」
「魔王国の者ではない。人間の
「色狂いめ、羨ましい真似を。しかし、お気に入りなら何故館に住まわせぬのだ」
「決まっている」
クルーガがせせら笑った。
「余人に見聞きさせられなことをしているのだ」
「増々羨ましい」
煙草を揉み消し、三本目を口にした。ラガンは嫌そうな顔をしたが、諦めたのかもう何も言わなかった。
「ならば、その教会ならば手薄か」
「館よりは。それでも、メナスの供だけでも四、五十は下りませぬぞ」
この頃の教会は、戦時には応急の砦になるよう縄張りされている。特にテカトリア教会はアンテ城の搦め手を抑える要所にある。アマドの館よりは軽いが、それでも攻めるには人数が要る。
「むう」
城から軍兵を出して事を大きくするのはよろしくない。ゲベルは頭を抱えた。
「殿」
待ち構えていたように、クルーガが周囲を窺うようにして低い声で言った。
「なんだ」
「ここは手練れの刺客を放ち、秘かにメナスを討つが上策」
「汝の乱波に使える者はおるのか」
代官所の飼っている乱波は全てクルーガが統括している。だが、その多くが連合軍の進撃を探るべく領外に出ていた。
「手飼いの乱波を使って、万が一事が破れれば却って
「心当たりがあるのか」
「
ラガンが興味深そうにクルーガに目を向けた。
「ぬしとは長い付き合いだが、そのようなことは知らなんだぞ」
「誰でも墓場まで秘しておきたいことくらいある」
クルーガは立ち上がってゲベルが開けた鎧戸を閉め、直垂を整えてゲベルの前に坐り直した。
「今まで誰にも話さずにいたのは」
言葉を切って、ゲベルとラガンを見た。二人がごくりと喉を鳴らした。
「
外法とは外道ともいう。旧神にも新神にも属さぬ始原の
「そのような者がまだ残っていたのか」
「うむ、余りにも
「ふむ、汝に凶々しいと罵られるとは、その者も名誉であろう」
ゲベルは口許に薄く笑みを浮かべてクルーガを見返した。
「そうかな」
ゲベルの言葉にクルーガは意外そうな顔をした。どうやら、この吸血鬼は心の底からそう思っていると知り、ゲベルは呆れかえって大きく溜息をついた。
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