第6話 まだ諦めるのは早い

 マレイの四門の大砲は、大公軍の陣地から半町足らずの地点をトロルたちに引っ張られて走っていた。敵の鉄砲兵と弓兵が立ち上がって反撃した。マレイは、砲が発見され鹵獲ろかくされるのを何とか防ぐためにトロルの知恵を絞り、砲手と陣夫たちに木の枝を持たせ、それで砲を隠しながら地面の僅かな窪みを探して走った。ぶらぶら揺れる枝の間から、太い砲身がぬっと卑猥に突き出していた。

「敵に放たせるな。砲を護れ」

 背後から大声がして幾つもの銃声が轟き、マレイは味方の横列がすぐ後ろを駆けていることを知った。

 八斤砲は低い堆土たいどに乗り上げると出し抜けに発砲し、大公軍の戦列を凄まじい散弾の雨で薙ぎ倒した。敵兵の大群が、押し包むように襲いかかる灰色の雲の中で溶けて、たちまち姿を消してしまった。

 砲兵の両翼では、怒号するグール重槍兵の隊列が鉄砲の発砲煙の中から突撃し、マレイの大砲も彼らとともに突進した。


 ゲベルは兵力で劣ることを隠すため、戦線のあちこちで攻め太鼓を叩かせていた。ハドラスは敵騎兵の側面攻撃を防ぐため、やむなく一個大隊を右翼へ移動させてしまった。それで、大公軍の中央は、決定的な瞬間にすっかり弱体化していた。

 大公軍の隊列は小さくなりだした。堤から漏れる水のように、兵たちがぽつりぽつりと退却しはじめた。

「もう支えきれぬ」

 マグラがハドラスに叫んだ。同輩が逃げていくのを見て、他の兵も身を隠すように頭を下げ、こっそり後退した。戦線は浮足立ち、流れはひとりでに逆流し、やがてどっと崩壊した。彼らは得物を投げ捨て、鎧を脱ぎながら十字路を怒涛のように駆け抜け、その先の、増水した川に架かる死の漏斗じょうごのような手摺てすりのない木橋に殺到した。間が悪いことに、ハドラスは輜重隊の一部を橋の北側に置くという戦術的失敗を犯していた。そのため、放棄された馬車が潰走状態の人の流れを堰き止めてしまった。何百もの兵が増水した川に飛び込み、多くが互いに掴み掴まれながら沈んでいった。大公軍の人馬の足許で、地面が激しく揺れた。

 奪った大砲で増強されたマレイの砲兵隊が、橋を見下ろす稜線に達していた。

「放て」

 マレイが怒鳴った。

 トロルたちは、弾運びの陣夫まで駆り出して次々に弾を填めて平射し、眼下の低地で右往左往する騎兵や歩兵や砲兵の大群に壊滅的な打撃を与えた。

 橋の上では馬車が引っくり返っていて、多数の弾薬車や救護用の馬車や兵糧を積んだ荷車が立ち往生していた。

 士分の者が部下に向かって刀を振り、川の南岸になんとか後衛部隊を作ろうとしたが、十字路を追撃してくるゲベル勢の銃火が間近に迫ってきたため、抵抗線を引く前に潰走してしまった。

「おおい、これを見やれ」

 一人のグールが馬車の上に立ち、歓声を上げながら長持ながもちを傾けて中身を地に撒いた。竹皮に包まれた分厚い鉄鋌てっていのようなものが、ざっと地面に拡がった。

「羊羹じゃ。しかも、双葉そうよう印の上物じゃぞ」

 竹の皮に包んだ練りの固い羊羹は気候の変動の激しい戦場でも腐らず、兵糧のひとつとして連合軍で重宝されていた。

 グールたちがわっと駆け寄り、竹皮をむしるのももどかしく喰らい始めた。

 羊羹は、グールにとって最も垂涎すいぜんな戦利品の一つだ。グールは屍食鬼とも呼ばれるが、実は甘いものを恐ろしく好む。一般に屍体の肉を好むと言われているがそれは悪意ある誇張だ。彼らは単に胃腸が異常に頑丈で、人の腐肉でも好き嫌いなく喰らうだけなのだ。

「奴らの度肝を抜いてやるのだ」

 ゲベルは、羊羹を頬張っているグールの群れに叫んだ。

「あの橋の上の馬車と馬の死骸を川に放り込め。奴らを徹底的に追撃せねばならん」


 橋から南に半里ほどの地点で、マグラは味方が歩いて退却できるよう敗兵を集めて最後の防衛線を築いた。しかし、この孤立した小さな拠点も標的を探すマレイの砲兵隊に発見され、たちまち粉砕されてしまった。

 長い影が夕闇に溶け込む頃、大公軍の行列は、遺棄された馬車や死にかかった馬の転がる悪夢の中をよたよた進んでいた。前の晩に兵たちを休ませた小さな草地で、ハドラスは呆然と坐り込み、無残な敗北の光景を眺めていた。

 何が間違っていたのか、どこで間違ったのかわからなかった。彼の旅団は、よろよろ退却する敵を追っていたはずだった。快速の騎兵部隊で敵を捕捉し、強力な歩兵の攻撃で叩き潰す。最初の銃声まで兵の士気は高く、元気一杯だった。幾つか小さい失策しくじりはあったが、致命的ではなかった。戦場では当たり前のことだ。馬鹿らし過ぎて、腹を切る気にもなれなかった。

 やがてハドラスは、誰かが自分に話しかけ、返事を待っているのに気づいた。顔を上げると、部下のバウンドの顔があった。彼の亜人連隊は輜重の警備を任されていたため、他の部隊より余裕があった。

「将軍、お願いでござる」

 バウンドは繰り返した。

「まだ諦めるのは早い」

「何ができると申すのだ」

 ハドラスは、まるで自分が蒸し暑い大気か樫の木の枝にでも話しかけてる気がした。昼間の眩しい太陽の記憶が、月の光に照らされた自分を嘲笑っている。

「玉薬をくだされ。この場で我が連隊が敵を阻止いたす。その間に、旅団の再編成を」

「玉薬も玉もない」

 ハドラスはか細く呟いた。その低い声を聴こうと、バウンドは上体を屈めた。

「あるとしても、今頃は敵が手に入れておろう。魔族どもが私を放っておいてくれるなら、私はもう手を出さん。汝はやれることを全てやってくれた。期待以上のことをしてくれた」

 彼は、バウンドの厳めしい顔を決まり悪そうに見上げた。

「後は、汝と汝の部下の安全を図ればよい」


 ゲベルは水滴できらきら光る馬に笞をくれて土手に登ると、後ろを振り返って手間取っている兵たちに荒々しい焦燥の視線を向けた。彼は一日中ぶっ通しで馬に乗り詰めで戦ってきたが、まだ獲物を追う興奮で体が激しく震えていた。馬廻衆が追いつくと、彼はすぐに新しい馬に乗り換え、刀を肩に漆黒の闇の中を疾走した。

 ゲベルは小さな川の近くに来て馬を止めた。スフィンクス騎兵らが停止して、夜の声に聞き入っていた。彼女たちの耳に、大公軍の後衛が近づいてくる音が聞こえた。

「何事だ」

 ゲベルは馬を輪乗りしながら訊いた。彼の馬はぐるぐる回りながら地面を乱暴に叩いた。

「殿様、敵の強力な後衛が前方から接近中です」

 スフィンクス騎兵の一人が答えた。ゲベルは煙草を取り出すと、火を点けて大きく吸った。兵たちは、彼らの大将の向こう見ずな振る舞いに目を見張った。いつ弾丸か矢が飛んできて、彼の胸を貫くかと思った。ゲベルは無造作に川に馬を乗り入れ、水中からぬっと突き出している影に煙草を向けた。

「あれは何だ」

「馬車です」

 先頭のスフィンクスが答えた。ゲベルはもう一つの影を指した。

「あれは」

「砲弾を運ぶ荷車です」

 馬廻とスフィンクスたちは、ゲベルに続いて川に入った。

 ゲベルは馬の腹を蹴り、先に立って川を渡りながら、平気で大声を上げた。

「続け。奴らにはもう戦う気力など残っとらん」


 増水した川の中で、人間とエルフとドワーフ、それに様々な種族の亜人たちが、鳥小屋の鶏のように流木に身を寄せ合っているのが見えた。

 馬廻たちはそれを物珍しげに見ていたが、ゲベルが馬の歩調を緩めず進むので、慌てて後に続いた。彼らの前方には、大公軍の馬車が幻想的な炎を上げて燃えていた。

 ゲベルは、今や自分の物になるべき財産が燃えているのを見て、怒りを爆発させた。彼は立ち止まって野次馬のように見物している馬廻とスフィンクス騎兵たちを怒鳴りつけた。

「忌々しい大公軍の糞どもが、儂の馬車を焼くのを黙って見ておるのか。さっさと荷台の荷を放り出せ」


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