第3話 こんなものだ

 払暁の薄暗い中、ゲベルの軍勢は荒い息をつきながら新道十字路に辿り着いた。ここはかつて小さな宿場村しゅくばむらがあったが、数年前の一揆で焼討やきうちに遭って衰微し、今は無人になっている。

 ゲベル勢は夜を徹して泥道を進んだため、上下ともに土人形のようで目鼻立ちもはっきりしない。緊張が緩んだのか、兵たちは元は畑だった草地に入るとその場にへたり込んだ。

 その兵の間をゲベルのみが意気揚々と歩き回り、

「草鞋を替えよ。馬のくつも忘れるな。兵糧を使うのはそれからぞ」

 しきりに指示を飛ばしている。

「殿様」

 自分を呼ぶ声に振り返ると、ナインが歩み寄ってきた。

「おう、先駆け苦労だった」

 ゲベルは頬を細かく動かしながら答えた。

「何を召されておられるのです」

「これよ」

 地面から、丸々太った蚯蚓みみずを摘まみ上げた。

「うえ」

 流石にナインの秀麗な顔が歪んだ。大勢の足音に驚いて地表に出てきた蚯蚓が、彼方此方あちらこちらうごめいている。

「風邪の薬じゃ。春とはいえ、昨夜ゆうべはいかい冷えたからな。ほれ、ぬしも一筋喰ってみるか」

「いいえ」

 即答であった。

「そうか」

 残念そうに呟き、饂飩うどんでも啜るようにつるりと口に入れた。ナインは口端で蠢く蚯蚓を気色悪そうに眺めていたが、やっと嚥下のみくだしたのを見図らって、

「これを」

 白湯を注いだ茶碗を差し出した。

「おお、すまぬな」

 ゲベルは道端に折り敷くと、泥だらけの手で椀を受け取って口をつけた。

「む」

 目を見開いて覗き込み、

「これは」

「塩をひと摘まみ入れました」

 ゲベルはもう一口含んで嬉しそうに目を細め、

「これは有難い。生き返った心地がする」

 大袈裟な物言いに、ナインがつい野鳩のようにくっと笑った。その様にゲベルはいささか憮然とし、

「そう面白がるな。儂ももうとしじゃ。無理をすれば疲れもするし風邪も引く。若いころのようにはいかぬわい」

「まだ、そのような弱音を吐くお齢ではございますまい」

「抜かせ。寿命を忘れたダーク・エンジェルのお前には、命数の定まった者の苦労はわからぬ」

「ダーク・エンジェルもそれなりに苦労というものがございます」

「そうなのか」

「はい。説明しても、殿はおわかりになりますまい」

 ナインが寂しそうな微笑みを浮かべたので、ゲベルも黙り込んで椀の白湯を啜った。


 やがて、

「殿様、そろそろ評定を開かれますか」

 ナインが、探りを入れるように聞いてきた。

いな、ホイル・デーモンどもがまだ着いておらぬ」

 とっくに合流しているはずのホイル・デーモンらの姿が見えない。ここには、彼らのほうが早く着くはずだった。

「ティグレ殿に限って手抜かりはございますまい。事情があって遅れているだけでは」

「であればいがな」

 小枝で草鞋の泥土どろをこそぎ落しながら、ゲベルが答えた。

 周囲は僅かな哨兵を除いて、馬に飼葉をやる者、往還に沿う小川に具足のまま飛び込んで歓声を上げる者、腰兵糧に嚙りつく者もいる。だが、多くはくさむらに横たわり、具足の高紐を緩めていびきをかいていた。無理もない。山に慣れたイスの兵とはいえ、一昼夜、敵の追跡に怯えながら泥海のような山道を辿ってきたのだ。ゲベルはしばらく兵たちを眺めていたが、近づいてくる足音に振り向いた。

 グールの馬廻が立っていて、広げた膝に手を当ててゲベルに一礼した。

「物見が戻りまいた」

「そうか。無事であるか」

「皆、無事でござる」

「うむ、会おう」

 小枝を投げ捨てて立ち上がると、

「シャイラに会うてくる。四半刻後に軍議を催す。ナイン、皆を集めておけ」

「はい」


 ゲベルは、残っている廃屋の中で一番大きな建物に歩いた。茅葺かやぶきの屋根が大きく傾いている。火はかけられなかったようだが、柱に刀創かたなきずが無残に残り壁に矢弾のあとがあって、ここも略奪を受けたようだった。

「殿様が入られます」

 ナインの声で、中の一同が顔を戸口に向けた。

 中は板敷で中央に炉が切られている。察するにただの百姓家ではないようだった。薄暗い中、屋根や壁の隙間から差し込む光の筋を受けて、漂うほこりがちらちらと白く輝いている。中に入ると、人の皮脂と泥土ういじに草根の腐臭、それに煙草の煙の臭いが混じり合って、えた醞気うんきのようにし掛かってきた。既に軍勢の主な者たちが炉を囲むように坐り、皆一様に泥に汚れた顔でゲベルを出迎えた。

「楽にせよ」

 忍び緒を解いて兜を傍らに置いた。それを見て一同が彼に倣った。

「まず、状況を確認する。落伍はおるか」

 ことさらに明るい口調でゲベルは問うた。

「三十九名。余さず回収してござる。他に荷車が三輌、車軸を折りました故、荷を移し替えて谷に投げ棄てまいた」

 輜重差配のダーハが潰れた声で答えた。若い頃はイスの峡谷で『首狩りダーハ』とその名を轟かせたグールだが、合戦で左腕の筋を切って戦働きから退き、今は輜重方三百余、荷馬車二十三輌の宰領を任されている。

「うむ、苦労」

 暗夜に泥の山道を駆けたにしては驚くほど少ない。ゲベルは兵の靭強な足腰に満足して大きく頷き、煙草をくわえた。鉄砲大隊長のゼクが、上帯うわおびから矢立やだてに似た形状の胴火を抜いて差し出した。ゲベルは無言で胴火を受け取ると、火口ほぐちを開いて煙草に火を点けて軽く煙を吐いた。

「物見したシャイラによれば、我らを追尾する敵がおる。ヘルメア王国リカウ大公軍の一個独立旅団七千乃至ないし八千」

 獅子の胴体に若い女の上半身を備えたスフィンクスに視線を向けた。長い金髪は埃で色褪せ、自慢の朱塗りの桶側胴は泥にまみれている。山岳騎兵中隊長のシャイラだ。彼女は口を固く真一文字に結んで大きく頷いた。

 ホイル・デーモンからなる重騎兵中隊が未着のいま、彼女の率いる六十名のスフィンクス襲撃騎兵のみが唯一の機動戦力だ。

「旗は丸に四つ鱗車うろこぐるま。大公軍のハドラス将軍率いる第三旅団だ」

 微かにどよめきが起こった。『鉄騎兵団』と呼ばれるリカウ大公軍の精鋭部隊の一つだ。

「敵は我らの来た道を辿り、真っ直ぐこちらへ向かっておる。早ければ二刻後には、先手がここに寄せてくるであろう」

 舌なめずりするようにゆっくりと一同を見回し、

「我らはここで敵を打ち破る」

 ぼそりと呟くように告げた。小声だった。だが、小屋の全員の耳にはっきり届いた。

「ならば、早う壕を掘らねば」

 黒毛くろげ狗頭くとうのレインが口を開いた。彼は工兵大隊のコボルト黒鍬衆二百の束ねだ。

 だが、ゲベルは首を振った。

「無用だ。ここで防いだとて、敵はイスまで追ってくる。この地で敵を叩き潰さねばならぬ」

「そうは申されても、如何いかがなさるので」

 突撃大隊長のハンが、蓬髪を掻き毟りながら尋いた。

「知れたこと。こちらから攻め懸かるに如かず。そのためにこの地を選んだのだ。橋を敢えて落とさず残したのもそのためよ」

「無茶な。兵は疲れ果てており申す。どうやって、三倍の敵を正面から撃破するのでござるか」

 ハンの言う通りだ。この状態で攻勢を仕掛けるのは、一般に認められた戦術全てを無視することになる。

「我がつわものどもが、一度でも儂の期待を裏切ったことがあるか」

 ゲベルは静かに言った。灰色の瞳が断固たる決意を示していた。じきにその目が激しい闘争心で燃え上がるのをハンは知っていた。敗北とそれに続く敗走の一昼夜を味わった今、ゲベルの全身の血がおめきを上げ、報復を求めているのだ。

「汝らも見たように、十字路の南側は泥地だ。あそこを通る道は狭い。敵は思うように進めまい。そして、我らはここから北の高台に展開する。木が生い茂っている故、こちらの兵力が劣勢でも敵にはわからぬ。敵の騎馬は我らをらまえんと、徒歩かちより二刻以上早く十字路に着くはずだ」

 煙草を吸うのも忘れて、彼は一層早口になった。

「我らはまず敵の騎兵を攻撃する。これは互角の兵力だから撃退できる。そして、敵の徒歩かちが泥道を走って救援に駆けつけてくる。これを」

 言いかけたその時、小屋の戸口からダークエルフの馬廻が顔を出して、ゲベルの言葉を遮った。

「御無礼いたす。ティグレ殿以下重騎兵中隊が到着いたした」

「無事か」

「途中、野伏との小競り合いで黒鍬者数名が手疵を負っておりますがいずれも浅手。ホイル・デーモンの衆は全て無事でござる」

「そうか。ならばすぐにティグレを呼んで参れ」

 馬廻が駆け去るのを見送って、ゲベルは獣の笑みを浮かべた。

「皆の衆、これで我らは敵を徹底的に粉砕できる」


 配下の指揮官たちが部下に指示するために散って、小屋にはゲベルとナインのみが残された。戸もない入口から吹き込む風に、ゲベルはぶるりと身震いした。

「春は名のみ、とはよく申したものだ」

 胴服の毛皮にこびりついた泥を払いながら、ゲベルがぽつりと呟いた。

「歩いておれば汗をかくが、立ち止まれば風がかんを運んでくる」

「そのようで」

 ナインが素っ気なく答え、感情の抜け落ちた二重の大きな眼を半眼にしてゲベルを見返した。

「なんだ、何ぞ言いたいことがあるのか」

「いいえ」

 この堕天使は、内に含むものがあるときは必ずこのかおをする。撫でつけられた濃紺の髪の生え際に、双角を根元から削り落とした切り株のようなあとがやけに目立った。

「ただ、まことに勝てるとお思いなのですか。あのような策が、うまうまと運ぶとお考えでございますか」

 逃げるべきだとナインは考えていた。イスの城に籠れば、一個旅団を相手にしても持ちこたえられる。途上の魔王国領の領主たち、例えばガシュウでメルナージ侯の助勢も期待できる。ここは、何としても風を巻いて北へはしるべきだ。

「うむ」

 ゲベルはうつむいて考え込む顔をした。それから、

「それでは民百姓たちが戦火にまみれ、塗炭に苦しむ羽目になる」

 その殊勝な物言いに、ナインは一瞬鼻白んだ。だが、ゲベルは構わず顔を上げてナインを見つめた。

「これしか道はない。我らが無事イスに帰るにはな。戦とは、所詮はこんなものだ」

 ゲベルの台詞に、ナインは面食らって端正な顔を緊張させた。三年前、蜂起したアスラ族一揆勢の真っ只中に取り残されたときも、ゲベルがこんな顔をしたことを思い出した。

「こんなものだ」

 あの時も、ゲベルはこう言った。

「うまくいかなければ儂を恨め。儂もそうする。どう転ぼうとも、戦とはこんなものだ」

 ナインは沈黙して唇を噛んだ。それは決断であり命令だった。ただの身勝手な繰り言と思えないくらいには、ナインもゲベルとの付き合いが長すぎた。


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