二日月 中の2
スホの部屋の前で世話係の者がソウを通していいか尋ねた。
ばさばさと紙のかさばる音がしてスホの返事が返ってきた。
「通していい」
ソウの心臓がどきっとした。スホの声が全然知らない人の声位に低かったから。
世話係の者について部屋に入る。
ソウは俯いて正しい佇まいをしているからスホの顔は見えない。
けれどソウの俯いた視線の先に見えるスホの手首や、手が8年の歳月の長さを物語っていた。
当然のことだけれどあの頃とは違う、ごつごつとした大きな手に変わっていた。
世話係の者がソウを紹介する。
続いて自分も自分の主に挨拶をした。
やはり気が付かれたのだろうか、少し間が空いて、スホが息を吐き出してから言った。
「顔を上げて良い」
…この言葉はスホから1度も言われたことの無い言葉だった。自分が許可を得ずして顔を見られる存在ではないことをまたもう一度思い知った。
胸が痛い。
ソウは決意を固めてゆっくり顔を上げた。
そこには自分を見て動揺する8年分成長した恋い慕った人の顔があった。
スホが黙り込んだことで明らかに動揺していることがソウにも伝わった。
スホの顔はどこか幼い頃の面影を残して更に麗しく、凛々しさを加えて元々の少し中性的な整った部分を際立たせる顔をしていた。黒髪に瞳が黒目がちなところが8年前を連想させる。
そこで世話係に声をかけられたスホが我に返った様に言った。
「そうか。では今日から宜しく頼む」
「はい、かしこまりました。なんでもお申し付けくださいませ」
ソウも正しい受け答えをして下がることになった。
高位女官には小さいながら自分の部屋が主の部屋の近くに与えられる。
ソウはそこに下がってこれからの仕事の流れを確認しながら考えていた。
もうこれから先はスホ様のお顔を直視するなんてことはあってはならないわね…。8年って長いんだわ。全然知らない方のようだったのに、でも不思議。変わらないところも持ち合わせていらっしゃった。それだけでもう、充分よね。
ソウは自分に欲張ってはならない、そう何度も言い聞かせた。
これもソウがスホに会いたくなかった理由のひとつだった。もちろん落ちぶれた自分を見られたくなかった。これがいちばん。だけれどスホの顔を見て、話をする。きっとそのうち心のどこかで自分に気がついて欲しいと欲が出る。
自分はあの時の、8年前のソウだと。
その事を恐れていた。
そしてその事を義父に想定されて利用された。
きっとそれくらいソウのスホへ対する気持ちが幼少期に貴族間で筒抜けだったということだ。
あの頃は幼すぎてなにも恐れを知らなかった。
それに当時は身の程知らずと笑われることも無かった。
けれど今は身の程知らずもいい所だ。
2度と欲張ってはいけない。
ソウはその事を重く感じた。
高位女官のする仕事は主の部屋の掃除、食事の配給、着替えの手伝い、その他雑用込の身の回りの世話だ。
これからスホと顔を合わせることも増える、こんなことでいちいち動揺しては居られない。
ソウは何としても「ただ同じ名前の女官」として王宮内で生き抜かねばならない。
どんなに顔が似ていると言われようと、スホから思い出話をされようとも。
絶対にスホに気が付かれないように、ただひたすらに努力して…。
「…辛い」
ソウはぽつりと自分が無意識に呟いていることに気がついた。
辛い、だなんて思う余裕は無いはずだ。
そう自分を必死に戒める。
でも現実、ソウの目の前にはスホがいる。
近いのにものすごく遠く立っている。
これから先スホ付きの高位女官としてスホのことを見て、話をし、スホが誰かと恋に落ちたり、誰かと、ましてやサリと婚儀をあげたりそういうことを見ていかなければならない。
なんならソウが婚礼の品を選ぶことになるだろう。
そしてスホに世継ぎを、と言う話をしたりするようになるのだ。
それはソウにとって拷問に他ならない。
ソウの気持ちを利用した義父がどうしても許せなかった。
義父はソウに生きながら死ねと言っているのだ。
少しでもスホに気持ちがあるなら誰にも見せるものではなかったのにソウは選択を誤ったのだ。
もし、この先スホの隣でスホの婚儀や恋路を見なくてはならないのなら尚更自分が8年前のソウだと名乗ることは出来ないのだと改めてソウは思った。
8年前のあの日から父の処刑までいちばん時期王妃の有力な候補だった自分が今では女官として働いている、こんな惨めな姿をスホに知られたくなかった。
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