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「鷹倉天狗? あだ名、ですか?」
へんな名前だ。
信じられるわけがない。
なにしろ、よく知っている名前と同じだったのだ。
「
父がよく飲んでいたので、子どもの頃から知っていたお酒でもあった。進学先のキャンパスが、鷹倉天狗をつくっている酒造メーカーの所在地と同じ園分寺市にあるというと、父はいたく喜んでいた。
鷹倉天狗と名乗った人は、真顔で首を横に振った。
「いいや、本名なんだ」
いまわたしは、その人と一緒に歩いていた。
「勤務先を案内するよ」と言われたのだ。
腐っても、若い女子。
見知らぬ男性に自宅の周りをうろうろされるのはちょっと嫌だ。
最寄のバス停から遠ざかっていたので、自宅から離れてくれるのはありがたいんだけど、なにしろ引っ越したばかりで土地勘がないので、知らない路地に入ってしまわれると、今度は迷子になりそうで怖い。
幸運なことに、その人が「こっちだ」と向かった先はキャンパスの方角だった。
通学路で、知ってるエリアだ。大通り沿いだし。
この人についていっても、まだ大丈夫。
とはいえ、
「でも、あの、鷹倉天狗って、有名なお酒の名前と同じじゃないですか?」
どう考えたって偽名でしょ?
本名も名乗らない人がさせようとする仕事って――?
鷹倉天狗と名乗る人は、いった。
「ああ、うちの酒を知っていたのか。そうなんだ。おれが生まれた記念につくった酒らしくて」
「はい?」
「着いたよ。勤務先はここだよ」
と、その人の足が止まったところには、豪邸があった。
古いアパートやら高層マンションやら一戸建てやらが建ち並ぶ人口密集地のこの街で、どーんと広い敷地をかまえた、和風建築の大豪邸。
丁寧に刈りこまれた生垣に囲まれているので内側は見えないものの、生垣の上に覗いている瓦屋根を見上げるだけでわかるぞ。
これは、お金持ちの家だ。
「入り口は、ここ」
生垣に沿ってぐるっと回ると、門があった。
いまどき門がある家って――お寺とお金持ちの家くらいじゃないの?
門をくぐって中へと入る間際、壁にかかっていた表札を見つけた。
分厚い木の表札には、こう彫られていた。
「こっちだよ」
鷹倉天狗と名乗る人は、いった。
門から先には石畳が続いていて、品のいいカーブを描きつつ、その先に建つ豪邸へと続いている。
その人が向かった先はそちらではなくて、石畳を左にそれた先にある日本庭園。池があって、橋が架かっていた。
こんなに立派な池があるって――公園かお寺か、とんでもない大金持ちの家じゃ――。
「ここ、家? ここ、家?」
驚きすぎて、同じ単語を繰りかえす壊れたおもちゃみたいになってしまう。
池をぐるっと回るように細い石畳の道が続いていて、たどった先には、真っ白な漆喰が塗られた立派な倉が建っていた。
わたしを案内した鷹倉天狗と名乗った人はすたすたと歩いていき、倉の戸に近づいて、慣れたふうに開ける。
鉄の飾りがたくさんついた、重そうな木戸だった。
「ここが職場なんだけど、どうかな。働けそう?」
倉の中は、木製の看板やら、壺やら、古いものが溢れんばかりに積み重なっていた。
足の踏み場もないくらいで、どうにか物をよかしてつくったふうな骨董品に囲まれた通り道があって、鷹倉天狗を名乗った人はそこを進んでいく。
通り道の先には、これまた無理やり物をよかしてつくったようなスペースがあって、そこにだけ、倉の中にしては不似合いな現代的なテーブルセットが置いてある。
シンプルだけどスタイリッシュな北欧風で、テーブルの上にはノートパソコンがあって、電気ケトルとマグカップが数個並んでいた。
「すまないな、汚いところなんだよ。若い女性には受け入れがたいかな。こんな職場でも耐えられそうなら、働いてくれないかな」
汚い――という言葉にもいろいろあるよね。不潔とか。
物に埋もれて散らかっているだけで、わたしは、ここが汚いとは思わなかった。
「いえ、全然平気ですよ。それより――」
「本当か! 助かる。じゃあ、早速契約を――」
「いえ、それより、仕事ってなんですか? あの、あなたは、本当に鷹倉天狗という方なんです――かね?」
いいながら、目が壁際に向かう。
骨董品にうずもれた壁の上に古い看板が高々と掲げられていて、こう書いてあった。
――鷹倉酒造
わたしが見た先をその人も向いて、苦笑した。
「そうなんだよ。おれの家が、酒造りもやっていて、おれが生まれた祝いを兼ねて、おれの名前をつけた日本酒を売りだしたらしいんだ」
「すごい……」
なんというリッチなエピソード……。
子どもの名前をつけた商品をつくっちゃうなんて。
いまや、そのお酒は園分寺市の名物になって、うちの父も飲んでいるわけですが――。
「すごいのかなぁ、おれはよくわからないね。周りの大人は『天ちゃんのお酒だよ、よかったね』と喜んでいたが、おれはまったく嬉しくなかった」
「そうなんですか?」
「ああ。目の前に、自分の名前が書かれたボトルがあって、周りの大人はうまい、うまいと中身を飲んでいるが、子どもに酒は飲めないだろう? 『飲んでみたい』とせがんでも『大人になってからだな』と笑われるだけで、なら、なぜジュースにしなかったのだと、当時からおれはずっと思っている」
それは、たしかに。
ごもっともだ。
「それに、おれもまだ飲んだことがないしなぁ。すごいことなのかどうか、なんともいえないね。あと半年くらいで二十歳になるから、ようやく飲めるようになるはずだが」
「未成年なんですか?」
「園分寺大学の二年だ。きみは新入生かな?」
「あ、はい。
「鏡さんか、よろしく」
「あ、はい。
「では、自己紹介も済んだし、契約成立ということでいいかな?」
「そんなわけにはいきません」
にこりと笑う天狗さんに、わたしは必死で食らいついた。
「あの、お仕事内容は――」
「ああ、ここの整理を手伝ってほしいんだ」
「ここの?」
天狗さんの目が向いた先を追って、わたしも周りを見回してみる。
オシャレなテーブルセットがあるこの隙間の他は、倉の中がいっぱいになるほど、古いもので埋まっていた。
「倉の中の物の片づけを条件に、中を使わせてもらうことになったんだ。でも、一人でやってもらちがあかなくて、誰か手伝ってくれる人を雇えないかと探していたんだよ。そうしたら、鏡さんを見つけたんだ」
「はあ」
「というわけで、どうかな。時給が安いかな。計算しやすそうだしと1100円にしたんだが、相場をまだ調べきっていなくて――最低時給は超えてると思うんだけど……」
「いえ、むしろ高いと思います」
昨日見かけた書店のバイトの時給は1050円だった。
しかも、そっちは経験者優遇。
「じゃあ、勤務時間は――」
「授業がない時間や休みの日に働けるだけ働いてくれるとありがたいよ。できるだけ早く片付けたいしなあ」
「でも、どんなことをするんですか? 見たところ、この倉にあるものはどれも貴重な品に見えますが、あの、おわかりだと思いますが、わたしにそういうものを扱う知識なんてないですよ?」
ざっと見渡してみても、古い壺とか、掛け軸とか、いかにも宝物が入っていそうな箱とか、そもそも何が入っているのかわからない古い木箱とか、そういうものだらけなのだ。
こういうのを骨董品っていうのかな?
「検索でいいよ」
天狗さんが指すのは、卓上のノートパソコン。
「似たものを探して、いつの時代の、おそらくこういうものだということを調べて、番号をつけてリストアップして、あと、できれば写真を撮ってほしい。処分する前に画像だけでも残せればよいかなぁと」
「それだけでいいんですか?」
なんだか、Tシャツやスニーカーを捨てる前の供養みたいなんですけど。
「ひとまずはね。おれも一人でやってる間はそうしていたし。とにかく、ここをどうにかしたいっていうのが、おれも家族も意見が一致しててね」
「はあ――」
「どうだろう。やってみてくれないかな?」
「それは、もちろん――やります」
おいしい。おいしすぎる。
天狗さんもほっとしたふうに笑った。
「よかった。助かるよ。お給料はひとまず手渡しでもいいかな。働いてもらった時間だけ控えさせてもらって、あとで計算するよ。いってもらえれば即日払いもできるし――」
「即日? 助かります。ぜひやらせてください!」
「ありがとう。じゃあ、契約しよう。まずは座りたまえ。立たせたままで悪かったね」
検索なら、できそうだ。
調べて記録して、調べたものを写真に撮ってリストにまとめるのも、うん、できそう!
しかも、時給1100円。
即日払いOK。
シフト自由。
さらに、場所は学校のそばなのだ。
授業が終わったらすぐバイトに来られるし、アクセスも最高過ぎる。
なにより、この天狗さんって人は優しそうだし。
ここなら、未経験で最低ランクの労働者のわたしでもやっていけそう!
「こちらにどうぞ」
椅子に腰かけるようにすすめられて、あらためて見てみると、置かれたテーブルセットは、深い色の木目が美しい上質な品だった。
我が家の、ホームセンターで揃えた安家具とは大違い。
お金持ちって、囲まれているものから違うんだなぁ……。
古い倉の中だけど、電気は通っているようで、LEDライトが天井についていて、隅には冷蔵庫も置かれていた。
卓上のノートパソコンや、テーブルの周りに置かれたものを眺めてみると、どうやら天狗さんは、この倉を自分の部屋みたいに使っているみたい。
壁際に小さな棚があって、本や雑誌が並んでいて、プリンターも置かれている。
「契約だが、これで――」
なにやらゴソゴソと音がする。書類でも用意してるのかな?
書類――と、ハッとした。
お仕事をするなら、働く側もいろいろと用意しなくちゃいけないよね?
履歴書とか、印鑑とか、お給料の振り込み先がわかる銀行のカードとか!
「すみません、履歴書がまだ用意できていないんです。印鑑も持ってきていなくて――」
天狗さんは微笑んで、すっとなにかをさしだした。
「いや、これでいいかなと思って」
手元にさしだされたものを見下ろして、目が点になる。
黒漆塗りのお膳だった。
黒塗りのお膳の上には、赤漆塗りの平たい器が三枚重なっている。形は、盃みたいな。
お膳にも盃にも金箔で模様が描かれていて豪華なんだけど、明らかに古いもので、漆はあちこちが剥げていた。
とにかく、ふつうの暮らしをしていたらまずお目にかかれないものだ。
どこかで見たことがあるような――と、一生懸命記憶をたどって、思いだした。
あれだ。雛人形だ。
雛人形の飾りの中に、似たグッズのミニチュアがあった。
とにかく、雛人形みたいな、十二単とか束帯とかの古い和装の人のそばにあるとイメージがピッタリはまるやつだ。
すくなくとも、オシャレな北欧家具の上で、ノートパソコンと並んで置かれるものではない。
「あの、天狗さん。これは……」
「昨日おれが調べていたものなんだが、古来、日本には
「三三九度――はあ」
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