鏡 餅子の民俗学なバイトレポート

円堂 豆子

契約は三三九度で

1


「お金が、ない――」



 拝啓 去年のわたし


 知ってました?

 お金がないって、やばいんです。

 お先真っ暗。ほんとに真っ暗。

 明日の自分がなにを食べてるかも思いつかないんです。

 ひもじさは、人間性を狂わせます。

 二度とこういうことが起きないためにも、貯金を、なにとぞ貯金を――。



 まるで、遺書だ。


 憂鬱な気分に浸ったままそこまで思って、わたしははっと冷蔵庫に向かった。

 ドアを開ける。

 そこには、庫内のオレンジ色のライトに照らされた卵二個と、もやし。


「もやし様が……まだご鎮座されていた!」


 貧乏とは、恐ろしいものである。

 仕送りまであと一日。お米は昨日切れた。

 食べるものがない。

 買うお金もない。

 このままだったら住む場所を追いだされるかもしれない。

 追いだされて、住む場所を失ったら、どうなるんだろう――。

 ネガティブなことだけが、えんえんひたすら頭をよぎって、思考が止まる。

 切に思う。

 人間だれしも、一度は貧乏を体験してみたらいい。

 この苦しみを一度味わったら、もやし一袋のありがたさがわかるから。


 

「おいしい……」


 たっぷりのお湯で煮たもやしと、溶き卵。

 味付けは塩こしょうと醤油と、このまえタダでもらってきた牛脂も入れた。

 牛脂があるせいで、肉の味がする!

 大事なことだから何度でもいうけど、牛脂のおかげで肉の味が(うっすら)する(気がする)――!


「生き返った……」



 ――思いだした。

 むかし、といっても、先月。

 一人暮らしを始める前、実家で暮らしていた頃、兄が言った言葉だ。


「なあ、餅子もちこ。知ってるか。世界に平和をもたらすためには、みんなが肉を食えばいいんだ」


 兄は、俗にいうイケメンだ。

 顔がよくて、性格も、まあ悪くはない。

 街を歩いていたら「テレビに出てる人?」と振り返られたり、わたしの友達からも騒がれたりする程度には、羨ましいことに見た目がいいんだけど。

 その彼が、これから県外に一人暮らしをしにいくたったひとりの妹に贈った言葉が、これ。


「困ったら、みんなで肉を食おう。――そうはいっても、近頃はベジタリアンも増えてるか? とにかく、うまいものを食おう。そうしたらみんな落ち着いて、いらいらしなくなって、戦争もなくなる」


 肉を食えば、戦争がなくなる?


 その時はそう思ったけれど、いま、わたしは悟った。

 兄は正しい。

 世界に平和をもたらすためには、みんなが肉を食えばいいんだ。

 そして、全人類が、生きていくための必修科目として、一週間くらいの「食うもんがない」実習をやってみればいいんだ。

 空腹がどれだけ恐ろしいことかわかるから!


 思考がおかしくなるし、憂鬱になるし、いらいらもするし。

 飽食は敵、困っている人がいたら食べ物を分けてあげたくなるよ、そりゃ。

 そしていま、その実習を経て、もやしのエキスをたっぷり含んだ水分たっぷりめのスープを味わいながら、わたしは思う。


 ――この満足感を忘れないためにも、バイトをしなくちゃ。

 ――人間的な暮らしを維持しなきゃ。

 なぜなら、戦争がはじまるから。




 わたし、鏡餅子かがみもちこは、大学に入学したばかり。

 遠方から引っ越して、一人暮らしもはじまった。


 生活費は両親が送ってくれていたけれど、決して裕福な家庭ではないので、いま受けている援助が精一杯。

 そもそも受験も、「一生懸命バイトするから!」とゴリ押して許してもらった。

 けど、実際にやってみないと、理想と現実の区別はつかないものなんだよね。


 お金って、思ったよりもあっという間になくなるのだ。

 とくに今月は、引っ越したばかりでいろんなものを買った。


 それを理解したのは、四月末のことだった。

 入学式や、はじめての講義や、関連するコンパや、高校生から大学生へとスライドする特別な期間が終わって、これから四年間続く日常生活のターンにさしかかった。

 一人暮らしや新生活をはじめた人たちが、「ハッ、ここはどこ? わたしはいったいなにを……」と我に返る頃ともいう。

 わたしの新居にもベッドやテーブルが整って、段ボールで運んできた衣類や日用品の荷ほどきも済んだ。

 足りないものはまだあるけれど、ちゃんと寝て、起きて、暮らしていける状態になった。

 でも、早くバイトをはじめないと、生活を維持できない。

 ここで暮らしていけないのだ。

 最悪、自主退学――と、現実に気づきはじめた。

 いやだよ、せっかく大学生になれたのに!




 大学生とアルバイトはきってもきれないもので、キャンパスの中にもアルバイト情報が集まる場所があって、毎日見にいった。


 ◇アルバイト募集 スーパー 品出し

  早朝5時~7時 時給1500円

 ◇アルバイト募集 工場 調理補助

  夜10時~早朝6時 時給1300円

 ◇アルバイト募集 書店 レジ補助

  午前10時~午後9時の間で5時間程度 時給1050円

  ※土日勤務できる方・レジ経験者優遇


 アルバイト情報サイトも毎日チェックするようになったけれど、土地勘のない新入生のわたしには、どこまでが通えるエリアかがよくわからなくて、地図アプリと切り替えつつの検索。


 あっ、これいいなぁ――と思っても、翌日にはもう決まってしまったのか、お目当ての貼り紙がなくなっていたり。

 アルバイト情報サイトでも、わたしが気になるようなおいしい求人情報は、みんなが気になるんだよね。

 表示される「現在の応募者数」が10人を超え、20人を超えて、あぁ、こりゃだめだ……と、そっとページを閉じたり。

 なにしろ、同じ境遇の人達が、限られた枠を争って応募しているのだ。

 早く決まった者勝ち。上手にアピールした者勝ち。

 弱肉強食の世界なのだ。

 世知辛いなぁ――。


「バイトかあ」


 お金が欲しいから、働きたい。

 でも、ようやく受験勉強から解放されたばかりのわたしには、面接の申し込みすらハードルが高かった。

「バイトをするから!」と両親を説得したくせに、じつはアルバイトの経験もなくて、もしもここがRPGの世界なら経験値はゼロ、冒険者レベルは1だ。

 面接をしてもらうためには応募先にエントリーしなくちゃいけないらしいけど、エントリーって、どうすればいいんだろう?

 WEBサイトだったら、どこかのボタンを押すのかな?

 電話だったら?――と、そこからのスタートだ。

 検索すれば、電話のかけ方は調べられたけれど、ふ~んと思うのと、実際できるかどうかは違うよね。


「お仕事の電話なんかしたことないよ……。直接履歴書をもって面接のお願いにいけるところ、ないかなぁ」


 そもそも、履歴書を書いたこともなかったけど。

 そうだ。まずは履歴書を書いてみよう。

 その前に、履歴書用紙を買わなくちゃ。


 慌てて百円ショップに出かけて購入してみたけれど、百円とはいえ、百円あったらもやしが買えちゃうんだよねぇ。

 安いスーパーだったら、さらに豆腐も買えちゃう。

 こんな紙を買うより、もやしと豆腐を買わせて欲しいなぁ。


 ――って、この考え方がすでに後ろ向き。

 夢に見たキラキラした大学生生活とは全然違うというか。

 お金がないというのは、本当に苦しい。

 ていうか、病む。


「早くこの生活から抜け出さないと――お仕事、ないかなぁ」


 どこかに、いいアルバイト情報が落ちてないかなぁ――。

 バイト未経験、冒険者レベル1の最低ランクの労働者でも雇ってもらえるところ、ないかなぁ――。


 百円ショップから自宅アパートへ帰るがてら、街のあちこちをまわった。

 反対側のホーム。バス停の端。こんなところに、あるはずもないのに。


 アパートに帰る途中で、わらにもすがる思いでバス停前のベンチの周りを覗きこんでいた時、声をかけられた。


「お嬢さん。もしかして、仕事を探してるのかな?」


 話しかけてきたのは、若い男の人だった。たぶん、大学の先輩くらいの。

 わたしには、マッチ売りの少女がともした幸せな幻に見えた。

「寒いかい?」「お腹が空いたかい?」と尋ねられたような。


「はい、そうなんです」


 即答すると、男の人はいった。


「そっか、奇遇ですね。おれも働いてくれる人を探していたんです。時給は1100円でどうですか?」

「えっ、そんなに? いいんですか?」


 時給1100円!

 目がキラキラとした。

 目の前にいる男の人もキラキラ輝いて、テレビや映画のスクリーンから飛びだしてきた、とんでもないイケメンに見える気が――。


 いやでも、ちょっと待って。

 いくら喉から手が出るほど仕事が欲しくても、最低ランクの労働者でも、尋ねておかなければいけないことはある。


「あの――どんなお仕事ですか? あと、あなたはどなたでしょう?」

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