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「これこれ」と、天狗さんはノートパソコンの前で長身をかがめて、カタカタとキーボードを鳴らした。

 画面に表示されたのは、有名なインターネット百科事典「Wakarudia」。


【三三九度(さんさんくど)】

 「三献さんこん」ともいわれる、日本の結婚式で行われる儀式のひとつ。

 三方さんぼうに載せた盃に、銚子ちょうしを用いて三度に分けて御神酒を注ぎ、新郎新婦が三口で飲み干すことによって、神様の前で夫婦の契りを結ぶ。


「夫婦の契り? 結婚式?」


 三三九度さんさんくどって――。

 どこかで聞いたことがあると思ったら、神社とかでおこなわれる結婚式の誓いの儀式のことじゃない!

 指輪の交換とか、誓いのキスとかの和風バージョン!


「いえ、三三九度なんて! バイトの契約をするだけで、結婚するわけじゃないんですし!」


 オシャレな北欧椅子ごと後ずさりをしたわたしに、天狗さんは人差し指を立てて「違う、違う」と指を振った。

 ――こんなポーズをする人、現実にいたんだ。


「昨日調べていたんだが、三三九度という契約法は、現代ではほぼ結婚式にしか残っていないんだが、すこし前までは証文代わりとしてよく行われていたようなんだ。祭りのリーダーの引き継ぎとか、義兄弟の契りとか、あとは、わりと有名なのはヤクザの親子盃や兄弟盃、襲名とか」

「ヤクザの親子盃――」


 バイトの契約から、さらに遠ざかっている気が――。


「三三九度の起源は、平安時代の貴族の宴や、室町時代の武将の出陣前の儀式や、古代の大王に由来するっていう説まであるね。とにかく、日本でむかしから行われている契約方法だったらしいよ。じつに興味深いよね。ほら、鏡さん、やろうやろう」


 天狗さんの目が、きらきらしてる――。


 会ってから一時間ちょっとしか経っていないけど、天狗さんが、この豪邸で暮らす御曹司で、育ちのいい紳士ってことはなんとなくわかった。

 経済力があって、真面目で、たぶんしっかりしている人だ。

 でも、淡々としているふうに見えて、古びた盃を前にして目が輝くくらい、好奇心旺盛な人なんだろうなぁ。


「つまり、天狗さんは三三九度というのをやってみたいんですね?――わかりました、お付き合いします」


 雇用主がそういうのなら――。

 盃でなにかを飲むだけだもんね。

 結婚するっていう意味にならないなら、まあわたしも、とくに気にならないし。


「断る理由はとくにありませんので……って、コーラですか?」


 冷蔵庫のほうへ向かっていた天狗さんが戻ってきた時、手にあったのは、コーラのペットボトルだった。

 プシュッと音をたてて蓋をあけると、三枚重なった一番上の盃に向けて、そうっとペットボトルを傾ける。


「本来は日本酒を使うべきだが、おれも鏡さんも未成年だからね」


 とはいえ、コーラですか。

 ますます契約感が薄れるけど――。


「注ぐ時は三度に分けて、と」


 ペットボトルの傾きを器用にコントロールしつつ、天狗さんは、三枚重なった盃のうち一番上の小さな盃にゆるゆるとコーラを注いだ。


「飲み干す時も三口に分けて飲んでくれ。では、やってみるか」


 天狗さんは冷静を装っていたけれど、明らかにわくわくして見えた。


「はあ」


 いや、べつに、いいですけど。

 三三九度による契約っていうか、三三九度ごっこっていう感じですけど。


「力関係が五分五分になるように、兄弟盃のやり方でいこう。お客さんの鏡さんから先に飲んでもらって、飲み干した後でおれも同じ盃でいただくよ。『同じ釜の飯を食う』というか、同じ盃を使って同じように飲み干すのが盃事さかずきごとの元来のルールらしい」


「いただきます」の掛け声っぽく天狗さんがいう。


「では、鏡さん、どうぞ。今後ともよろしくお願いします」


 声につられて、慌てて盃に手を伸ばした。


「はい、よろしくお願いしま……」


 でも、そこで固まる。

 盃に注がれたコーラの水面に、ゆらっと笑顔が浮かんでいた。

 にたりと笑ったおじさんの顔。

 水面に写ったおじさんが、わたしを見上げて、にやにや笑っている。


「待った、ストップ、天狗さん!」

「――契約できないのか?」

「そうじゃないんです。見てください、これ! 誰?」


 まだ手に取ってもいなかったので、盃はお膳の上に置かれたまま。

 水面も揺れることなく、平たく凪いでいた。

 コーラ色の水面に浮かび上がったおじさんの顔は、まだそこにあった。

 

 天狗さんも、盃を覗きこんでくる。


「知らない顔だな。誰だろう?」

「誰だろう、じゃないですよ。そういえば、この盃は昨日調べていたものだっていってましたよね? 古いものだし、もしかして、妙ないわくつきなんじゃ――」

「そんなことはない――とは、いいきれないなぁ」


 天狗さんは立ちあがって、倉の隅の壁際へ向かった。

 自分の胴周りより大きな古い木箱を運んできて、テーブルの上に載せる。


「この三方さんぼうと盃が入っていた箱だよ。箱にはなにも書いてなくてね。開けてみたら、出てきたのは立派な三方さんぼうと三つ重ねの盃のセットだし、お屠蘇とそ用の屠蘇器とそきか、なんらかの儀式に使われていたものじゃないのかなと考えていたんだが、はっきりした由来はわからないんだ」

「由来がわからないって――もしかして、あやしい儀式に使われていたものなんじゃ――このおじさんがその儀式で酷い目にあって、恨んで盃にとり憑いてるとか……」

「そうじゃない――とも、いいきれないなぁ」


 天狗さんはため息をついた。


「さっきも話したけど、三三九度そのものはかなり古くからあったかもしれないんだけど、こんなふうに華美な盃が使われるようになったのは、だいたいだが、江戸時代以降のはずなんだ。そう考えると、コーラに写っているこの男性も、江戸時代以降の人なのかな、という推測はできるんだけど」

「江戸? そういわれてみれば、髪型がちょんまげに見えるような、見えないような……」


 なにしろ、豪華な盃に注がれているのはコーラだ。

 液体に茶色がついているせいか、髪のあたりはコーラの色と同化していて、はっきりとは見えなかった。

 天狗さんはしょんぼりと肩を落としている。


「はあ。三三九度、やってみたかったのになぁ」

「そんなことをいっても、もしもわたしがこれを飲んでいたら、わたしは天狗さんとじゃなくて、このおじさんと契約することになりませんか?」

「あ、そうか。それは困る」


 ――いえ。一番困るのはわたしですが。

 バイト先を見つけたつもりで、いにしえのおじさんとうっかり契約しちゃったら、最悪とり憑かれるかもしれないですし、一生の汚点です。

 お母さんにもなんていえばいいのか……。


「江戸時代の人か……傾けたらなにか見えたりするのかな」


 コーラに浮かんだおじさんはにやにやと笑っていて、こっちのことが見えているかのように、わたしの顔を見あげていた。

 はっきりいって、いやな顔。

 じろじろと女の子を見て値踏みするような――。

 こんなふうに女の子を見るなんて、最低。

 むかむかと腹が立って、わたしは盃に手を伸ばしてみた。


 朱塗りの盃には、縁周りと内側に金箔で模様が入っている。

 いくら古くても、お宝と呼んでもいい代物のはずだ。

 おじさんの顔さえ写らなければ、だけど。


 手に取って、近くで見ようとした、その時。

 シュン、となにかが身体を通り抜けた。


 次の瞬間、周りの景色が変わった。

 広い和室にいて、ぷうんと畳の匂いが香る。

 それに、お酒や魚料理の匂い――料亭とか、仕出し屋の匂いみたいな。


 座っていたはずの椅子も、北欧デザインのテーブルも、倉も、周りにあったはずの何もかもが消えていた。

 それこそ、襲名式とかがおこなわれそうな立派な和室にいて、金色の屏風が飾られているのが遠くに見える。

 とにかく広い場所で、豪華な温泉宿の宴会場にも見えたし、お殿様がいそうなお座敷にも見えた。

 舞台衣装のように豪華な着物姿の女性がずらっと五人座っていて、五人それぞれと向かい合うように、ちょんまげ頭の男の人が五人並んで座っている。

 そういう場所に、いつのまにか、私はいた。


「それ、わしの――」


 声が聞こえる。


 足元、畳に近い場所に、金銀の糸が織り込まれたギラギラした着物を身にまとったおじさんが座っていて、恨めしそうにわたしを見上げていた。

 ううん、わたし、じゃなくて、わたしが手にした盃。

 コーラが入ったままの――そう思って見下ろしてみて、驚いた。

 手にしていた朱塗りの盃からは、コーラが消えていて、代わりに水……じゃなくて、たぶん、お神酒みきだ。

 さっき天狗さんがいっていた、正しく使う場合に注ぐ、日本酒。

 盃には、お酒が入っていた。

 しかも、盃は新品のようにつやつやになっていた。

 さっきは漆が剥げて木目が見えていたのに、いまは古さなんて感じさせないくらい、漆塗りも金箔の模様もくっきりとして艶やかだ。


「どういうこと!」


 ついさっきまで、コーラに浮かびあがったおじさんの顔にいらいらしていた。

 でもいま、そのおじさんは目の前に座っていた。

 うん、同じ顔だ。このおじさんだ。

 おじさんの隣には、きれいな女の人が座っていた。

 整った目鼻立ち、長いまつげ、赤い唇。藤色、濃い赤、華やかな黄色と、何枚も重ねた着物に、顔の倍の高さにまで結い上げた黒髪に、これでもかと飾った簪。

 どこもかしこも盛りすぎなのに、見事に着こなした美女。

 美女が、ついと眉をひそめてわたしを見上げて、唇をひらく。


「おいでなんし。どうなんした?」


 この人は、あれだ。

 たぶんあれだ。

 花魁おいらんだ。


 ――ちょっと待って。どういう状況?

 ――ここはどこ、なんでわたし、こんなところにいるの!


「盃から手を放せ、鏡!」


 天狗さんの声が聞こえる。


 天狗さんが助けにきてくれたの?

 大混乱の中、やってきた白馬の王子様にすがるように、その人の姿を捜した。


 その人は、すぐ隣にいた。

 ちょうどさっき、北欧デザインの椅子に隣り合って座っていた時と同じ位置だ。

 

 天狗さんは、スマートフォンを手にして、ものすごい勢いで画面の上で指を動かしていた。

 混乱してビビりまくるわたしをちらっと見たりもしたけど、自分の手もとに夢中だった。


 ――え……なにしてんの?

 はっきりいって、ひいた。


 天狗さんも同じ状況にいた。

 いきなり江戸時代の花魁がいる世界に飛んできた、そのはずだ。

 なのに、さして驚きもせず、淡々とスマホをいじってる。


 ほんと、なにしてんの?

 ドン引きだ――。


 ええ、ええ、こんな盃から、手なんか放しますよ!

 やけくそのように盃を落っことした。

 すると――、気がついた時には、もとの倉の中に戻っていた。

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